みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画「キングスマン2 ゴールデンサークル」についてお話していこうと思います。
『ワイルドスピード』シリーズもそうなんですが、一度死んだキャラクターが生きていて、その後の作品に登場するというのは、作品における「死」の重みを喪失させてしまいます。
前作で、命を落としたハリーが普通に再登場するという展開は、嬉しくもあり、少し受け入れ難くもあるという複雑な気持ちなんですよね。
今回の「キングスマン2 ゴールデンサークル」では、マーリンが地雷を踏むというファンとしては涙なしに見れない展開が待っているのですが、どうしても「どうせ生きてるんじゃない?」という邪推をしてしまいます。
その点で、今作はファンとしても賛否別れる内容だったのではないでしょうか。
そんな本作について、今回は自分なりに感じたことや考えたことを書いていこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような要素を含む感想、解説記事になります。
作品を未鑑賞の方はご注意くださいますようよろしくお願いいたします。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『キングスマン2 ゴールデンサークル』
あらすじ・概要
世界的ヒットを記録したイギリス製スパイアクション「キングスマン」の続編。イギリスのスパイ機関キングスマンの拠点が、謎の組織ゴールデン・サークルの攻撃を受けて壊滅した。
残されたのは、一流エージェントに成長したエグジーと教官兼メカ担当のマーリンのみ。2人は同盟関係にあるアメリカのスパイ機関ステイツマンに協力を求めるが、彼らは英国文化に強い影響を受けたキングスマンとは正反対の、コテコテにアメリカンなチームで……。
主演のエガートンやマーリン役のマーク・ストロングら前作のキャストに加え、ステイツマンのメンバーにチャニング・テイタム、ジェフ・ブリッジス、ハル・ベリー、謎の組織ゴールデン・サークルのボスにジュリアン・ムーアら豪華キャストが新たに参加。
さらに、前作で死んだと思われていたコリン・ファース扮するエグジーの師ハリーも再登場する。前作に続き、「キック・アス」のマシュー・ボーンがメガホンをとる。
(映画com.より引用)
予告編
『キングスマン2 ゴールデンサークル』感想・解説(ネタバレあり)
女に石を投げられる人間などいないだろう?
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation 映画「キングスマン2 ゴールデンサークル」予告編より引用
みなさんはキリスト教聖書に登場するオリーブ山でのエピソードを知っていますか?
イエスがオリーブ山というところに向かうと、律法学者とパリサイ派の人々が彼の下に一人の女性を連行してくるんですね。その女性というのは、姦通の罪で捕らえられています。
律法学者とパリサイ派の人たちはイエスに対して、モーセの律法に準じて女を石で打ち殺せと命じることの是非を問いかけます。
するとイエスは指で地面に文字を書き始めます。それは「あなたの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」という内容でした。
これを見ると、集まっていた人々は次々に去っていきました。そして結局誰も女の罪を咎めることなく消えていきました。イエスは女に「私もあなたを罪にさだめない。これからはもう罪を重ねてはいけない。」と告げて、解放します。
このエピソードは、イエスがローマ総督がユダヤ人の死刑執行権を剥奪していたこととモーセの律法で姦通の女を死刑にすると定められていたことという2つの事情が絡み合ったために、イエスがそのどちらにも背かないために出した結論と言われています。
ただ、ここで述べられていることというのは、常に人が社会を維持していく上で、人が人を裁く上で付き纏う問題です。
この問いに単純に答えを出すことは難しいです。
ですから人は、法律や刑法を作成した上で、それに則って人を裁くことを正当化しているわけです。根源的にこれが正しいのか?それは答えられませんが、法律や刑法の類はその裁く行為に正義をもたらすわけではないと思うんです。
あくまでもその裁くという行為を「許して」いるだけだと思います。
今回の映画「キングスマン2 ゴールデンサークル」は、まさしくこの「罪と罰」の問題が顕著に絡んできています。善良な市民や国歌を牽引する政治家、そして独立諜報機関のエージェントにまで麻薬の闇が及んでいるという点は、まさに現代社会への皮肉でしょう。ただ今作で麻薬というモチーフはそれだけではなくて、「罪」の表出として機能しています。
テレビで連日のように麻薬・ドラッグ関係のニュースが取りざたされています。
日本でも時々芸能人の所持・使用スキャンダルが流れますよね。おそらくアメリカになるとその頻度も規模も日本より大きくなると思います。
しかし、そんなニュースを見ながら嘲笑しているテレビの前の人は、本当にその権利がありますか?
自分自身は麻薬・ドラッグを使用しているにも関わらず、表沙汰になっていないから罪ではない。
しかし、それが発覚して法的に裁かれる立場になった人を見ると、「もっと上手くやれよ。」と嘲るのです。
つまり罪人が罪人を嘲るという滑稽な構図が不可視的に構築されているわけです。
本作「キングスマン2 ゴールデンサークル」はそんな隠れた罪人たちをポピーの計画を媒介として可視化しました。
罪を嘲る人間もまた同様の罪を犯しているという構図を「全世界に9億人」という触れ込みは誇張を含むやもしれませんが、明らかにしています。
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation 映画「キングスマン2 ゴールデンサークル」予告編より引用
それに対して、さらに本作では麻薬を使用したことのある人間は全員殺してしまえばよいというフィリピンのドゥテルテ大統領を想起させるような見解を、アメリカ大統領やウイスキーといった登場人物の思考に忍び込ませています。
つまり「無罪」でかつ「潔白」な人間が、「有罪」でかつ「不純」な人間を残らず裁いてしまおうというわけです。
ここで冒頭の聖書の話に立ち返りましょう。
女に石を投げつけることのできた人間が一人でもいたでしょうか?
答えは否です。「無罪」でかつ「潔白」な人間などという理想はもはや存在しえないんです。
ユダヤ教の一部解釈では、人間は生まれながらに原罪を背負うという考え方もあります。さすれば、この世に生まれた時点で我々は罪を背負っているとすら考えられます。それに人が生きていく上で、何の罪も犯さないというのは不可能です。
作中の「ミンチ肉」の描写は鮮烈でしたよね。
あれもマシューボーン監督がただただグロテスクな描写を入れたいからという安直な理由で取り入れたとは思えません。皆さんが普段何気なく食べているハンバーグは動物の肉をミンチマシーンにかけて作られているわけです。
ただ我々の社会では、その最もグロテスクな部分を不可視化して、一部の人に取り行わせています。大多数の人間はそのグロテスクな過程をスキップして、ハンバーグを享受しているのです。
動物の肉を食べるというある種の「殺戮行為」を日常的に行っているにもかかわらず、その「殺し」のパートが不可視化されているがために、我々はその根源的な事実から目を背けることに成功しています。
それを正面から描き、我々に突き付けたのがあのミンチマシーンなのでしょう。あの光景も我々が日常的に犯している「罪」の1つです。
またポピーのアジトが1960年代の「アメリカングラフィティ」に登場するような60年代のアメリカの街並みであることとそれがカンボジアの密林の中にあるという事実もまた興味深いです。
カンボジアという国は50年代~70年代にかけて行われたベトナム戦争(カンボジア・ベトナム戦争)に関連が深いです。さらにはあの密林と地雷はまさしく当時の戦争を思い出させます。
また、マーリンが歌った「カントリーロード」も70年代の楽曲ですから、どうしても当時のアメリカを想起させますよね。
アメリカは自分たちに正義があるとして、「戦争」という罪を犯しました。その一方で、自分たちの国では「楽しい時代」を享受していたわけです。
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation 映画「キングスマン2 ゴールデンサークル」予告編より引用
これもまた「無罪」の立場にある者が「有罪」の立場にある者を裁くという正義の希求なんです。ただその「無罪」の立場にあるアメリカを模したポピーの工場が麻薬カルテルの総本山という点が何ともエッジの効いた皮肉ですよね。
つまり自分たちは「無罪」で「潔白」な人間なんだからという理屈で、「有罪」でかつ「不純」な人々を裁くという行為に正当性は見いだせないんですよ。なぜならそれは罪人が罪人を裁いているだけですからね。だからこそ人は唯一「許された」法律や刑法に基づいて人を裁かなければならないのです。
これを逸脱するがために起こるのが、ビジランテ的正義の希求とその負の連鎖としてのテロ行為だと思うんです。
自分の信念と正義感のために、私刑行為やそれに近い行為に走ってしまう人が世界中にいると考えられます。
それは身体的な暴力だけには留まりません。
社会的、心理的、文化的排除と迫害もまたそれに該当すると言えます。
そしてその「痛み」と「苦しみ」が新たなテロ行為へと繋がっていきます。
「罪人」が「罪人」を不当に裁いた先にあるのは、どこまでも「罪」なんですよね。
誰もが「罪人」で、だからこそ人を裁く行為を正当化するために法という概念があります。
であれば、我々はそれに則って人を裁かなければならないのです。アメリカ大統領やウイスキーのような法のプロセスのスキップは認められないんです。
ウイスキーの結末がミンチ肉だったところに、批判が集まっているのは分かりますが、個人的にはあの帰結で良かったと思います。
「ミンチ肉」が本作では「罪」の生々しいモチーフだったわけですから、自らで作り上げた正義の鎧を着たパニッシャーであるウイスキーの内なる「罪」を鮮烈に印象付けたシーンでした。
またラストシーンも個人的には印象的でした。キングスマンという組織においてタブーだった恋愛という「罪」をエグジーは犯しています。
それでも彼は結婚という法的なプロセスでもってその行為をある種正当化しています。
また大統領の側近だった女性もそうですよね。自身も麻薬を使用したという「罪」を抱えながら、ビジランテ的正義の希求に走った大統領を法的なプロセスでもって弾劾しました。
つまり本作「キングスマン2 ゴールデンサークル」が描いたのは、リアルな「正義」の在り方なんだと思うんです。
「罪」の無い人が「罪」を犯した人を裁くという理想的な構図はもはや存在しえません。
だからこそ我々は自分自身が「罪人」であると自覚しながらも、唯一「許された」法的なプロセスに則って、行動し、裁いていかなければならないのです。
そこには人間共通の理解としての「正義」が存在することができます。
そしてキングスマンでさえもその十字架を背負うんだという究極のテーゼがエグジーの結婚だったのかもしれません。
ただ、このテーマ性というのは、この映画に限った話なら個人的には称賛できるポイントだと思いますが、続編を製作するという話になった場合に間違いなくネックになると思います。
というのも「キングスマン2 ゴールデンサークル」を製作したことで、キングスマンそしてステイツマンという組織が一介のビジランテ集団になり下がった可能性があります。
彼らは法のプロセスなんてものは一切無視で、暴力行為を働いてきた組織ですからね。この辺りは前作の流れから考えても矛盾を孕んでいると思います。
今作でこのテーマ性を描いたとすると、続編でキングスマン、そしてステイツマンという組織をどのように機能させていくのかという点はかなり難しくなったと思いますよ。
私情で動くスパイムービー:始まりの終わり
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation 映画「キングスマン2 ゴールデンサークル」予告編より引用
本作「キングスマン2 ゴールデンサークル」ってこれまた実に近年見ないタイプのスパイ映画なんですよ。
基本的に近年のスパイ映画って、悪の組織が全人類を危機に晒して、それを阻止するためにという大義名分でスパイが戦うという構図じゃないですか。だからこそ綺麗な勧善懲悪として何の矛盾もなくまかり通っている節があるんです。
例えば、「007 スペクター」は、スペクターという組織が全世界の機密情報を掌握して世界を危機に陥れようとする絶対悪に対してジェームズ・ボンドらが立ち向かうという構図が確立されています。
「コードネームU.N.C.L.E.」であれば、核兵器を大量製造して全人類を危機に陥れようとする絶対悪とスパイたちの戦いを描いています。
「ミッションインポッシブル ローグネイション」のシンジケートや「SPY」の敵も同様に絶対悪として描かれ、それにスパイが対抗するという構図が取られています。
基本的に近年のスパイ映画では、私情で世界を危機に陥れる絶対悪と大義名分を得てそれに対抗する正義(スパイ)の対決という単純明快な構図が採用されています。
前作「キングスマン」もいわば、その単純明快な構図でしたよね。環境問題を盾に世界を滅ぼそうとするヴァレンタインという絶対悪にキングスマンという正義が立ち向かい世界を救いました。
ただ今作「キングスマン2 ゴールデンサークル」は近年のスパイ映画とは少し毛色が違います。というのも正義と悪の構図が単純明快でなく、複雑でかつ矛盾に満ちているんです。
今作の巨悪であるポピーは確かに自分の企業の利潤の追及という私情で動いている節がありますが、彼女が今作で人質に取ったのは、麻薬に手を出した罪人なんです。
一方でキングスマンも今作では、私情で動いている節があるんです。顕著なのがエグジーで、麻薬を使った法的な罪人を救うという正義なのかそうでないのかあやふやな領域の行為を、恋人を救うためという私情のために正当化しようとしています。
作戦のために女性と寝る際に、恋人に電話していたシーンもそうですよね。
加えてハリーは自分の直観・私情の類の思惑で、ウイスキーを撃っています。(後にそれが根拠に基づいた行動だったと分かりますが)
また、殺された仲間の弔い合戦的な意味合いが強まっていることも、私情に基づく戦いに拍車をかけています。
また、本作で第三勢力に当たるアメリカ政府やウイスキーの動きも基本的に大義名分というより私情に基づいた行動です。
個人的な思惑から麻薬使用者を一掃してしまおうと目論む大統領。
自分の愛する人を麻薬使用者に奪われた復讐を目論むウイスキー。
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation 映画「キングスマン2 ゴールデンサークル」予告編より引用
本作では、勧善懲悪の構図が全く持って明確ではないんです。キングスマンという本来ならば大義名分のために正義として戦うはずの組織でさえも、今作では私情で戦っています。
つまり本作ではポピーVSキングスマンVSアメリカ政府VSウイスキーという四つどもえの構図を呈しているわけですが、そのどこにも正義が存在しないという明確な矛盾が生じています。どの勢力も「『私情』で戦う悪」であると評することすらできます。
私情VS私情VS私情VS私情が映画「キングスマン2 ゴールデンサークル」の正体であるわけです。これが本作が批判を集める原因の一つになっているのだと思います。
ただマシューボーン監督は第1作目でも近年のスパイ映画のリアル志向で暗い作風に対するアンチテーゼを打ち出して見せました。それはある種のスパイ映画ルネサンスだったわけです。古き良きスパイ映画をもう一度思い出させようとしたのでしょう。
そして今作では、「スパイに私情は禁物だ」というある種のお約束、鉄則に対するアンチテーゼを打ち出しているように思います。
ダニエル・クレイグ版ボンドの初期作では若かりしジェームズ・ボンドの私情が一つ重要なキーワードになりました。また「007 スペクター」でもマドレーヌのために戦うボンドの姿が印象的でした。
つまり今作「キングスマン2 ゴールデンサークル」は前作とは違って、むしろ近年の007シリーズへのリスペクトとコンセンサスが描かれていると思うんです。
スパイという存在は帰るべき場所を持たない存在です。自分を偽り、出自を葬り去って別の人の人生を生きる仕事とも言えます。ただそんなスパイたちにも帰るべき場所があっても良いんじゃないだろうか?帰るべき故郷が、帰るべき家があっても良いんじゃないだろうか?というメッセージ性が作品に通底しているように感じます。
本作ではやたらと「家」や「故郷」という言葉が使われました。
エグジーは任務を終えて「家」に帰れば、ティルデが迎えてくれます。
ハリーは記憶喪失の際に、しきりに「家」に帰りたいと主張していました。マ
ーリンがその最期に高らかに歌い上げた「カントリーロード」も「故郷」を思って歌われた曲ですよね。
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation 映画「キングスマン2 ゴールデンサークル」予告編より引用
つまりスパイにおいてタブーである「家」や「故郷」という存在を存分に描き、スパイの鉄則を盛大に破ってみせたとも言えるでしょう。
これはスパイ・オーダーの「始まりの終わり」かもしれません。
ただ素晴らしいテーマですし本作だけで見るならば綺麗に纏まっているのですが、これまた続編を考えると難しいのです。「私情」持ちこみ放題で、愛する人も「家」もあるスパイなんて存在は、もはや一介のビジランテじゃないですか。
さらにはスパイにして人を愛してしまい、それを失った悲しみからスパイの道から逸脱してしまったウイスキーというキャラクターをミンチにしてますからね?エグジーは重い十字架を背負ったとも言えますよ。
公的な利益のために動かなければならない集団が、何らかの利害を持ってしまった、そしてそれを持つことを肯定してしまったわけですから続編でこの辺りとどう向き合うのかは非常に難しいところですよね。
おわりに
本作を見ていて一番感動したのは、やっぱりマーリンの「カントリーロード」のシーンですよね。
このシーンが前作からの功労者を簡単に殺すなということで批判の的にもなっているようですが、個人的には素晴らしかったと思います。
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation 映画「キングスマン2 ゴールデンサークル」予告編より引用
「キックアス」1作目のビッグダディ、「キングスマン」1作目のハリーといい、マシューボーンは父性的なメンターを描くのが非常に上手いです。
そしてそのメンターの死が、メンティー(弟子)にとっての大きなターニングポイントとなります。
死して大切なものを遺すそこにマシューボーンの美学があるように感じました。
それが今作においてはマーリンだったと思うんです。確かに描写不足だったと言えば、そうなんですが、おそらくマーリンって冒頭でエグジーに指示を出していたところから考えても、ハリー亡き後エグジーのメンター的存在になっていたと思うんです。
序盤にエグジーに「仲間の死を悲しむのは作戦の後だ」という教示を告げますよね。ただその時号泣したのはマーリンの方でした。
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation 映画「キングスマン2 ゴールデンサークル」予告編より引用
マシューボーンが描く父性的メンターってこれまでは、自分の生き様と行動でメンティーに教示するというタイプだったと思うんです。
ただマーリンってそういうタイプのメンターではないんですよね。
エグジーに泣くな!と言っておきながら、自分が真っ先に泣いてしまう少し情けない父親像を持っているんです。この点がハリーと対照的ですよね。
しかし、エグジーには2人の異なるタイプのメンターが確実に必要だったのだと思うんです。
というのも仲間を守るために自らが爆弾(地雷)の犠牲になるという選択は、他でもないキングスマン候補生だったエグジーの父親が下した決断です。
だからこそマーリンの最期のシーンで、涙を堪えるエグジーは一層印象的なんですよ。
彼はマーリンのその雄姿に自分の父親を重ねているのかもしれません。
そして、彼はマーリンの「仲間の死に涙するのは作戦の後だ。」という教えを噛みしめるように守り抜きます。
つまりマーリンという父性的メンターの存在とその死を通して、エグジーは亡き自身の父から大切な何かを受け取ったのかもしれません。
やっぱりマシューボーンはメンターを描かせたら右に出る者はいないんだなぁと改めて実感させられた本作でした。
作品の総評としては、単体の作品としてはかなり満足できましたが、この方向性でやってしまったがために続編が難しくなってしまったような気がしますね。この辺りは、どのように整合性を取ってくるのかが心配ですね。
皆さんはどのように感じられましたか?良かったらお聞かせください。
当ブログでは『ミッションインポッシブル』シリーズ最新作の記事も書いております。独自視点からの考察なので、ぜひぜひ読んで行ってくださいね!!
参考:【ネタバレ】『ミッションインポッシブル フォールアウト』を「円」と「3」から読み解く
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
関連作品
最近、シリーズを大きく解体して続編につなげるという作品が流行っているようですね。例えば『ジュラシックワールド2 炎の王国』は「パーク」を解体し、「ワールド」へと導いた衝撃作でした。
参考:【ネタバレ】『ジュラシックワールド 炎の王国』が展開したシリーズの世界観
また『スターウォーズ8 最後のジェダイ』もこれまでのシリーズを大きく拡張するような内容になっており賛否が分かれましたね。
参考:【ネタバレ】『スターウォーズ 最後のジェダイ』が拡張するスターウォーズのミライ
他にも本作にウイスキー役として出演したペドロ・パスカルが出演している映画『イコライザー2』をご紹介しておきます。
参考:【ネタバレあり】『イコライザー2』においてロバートマッコールがデンゼルワシントンでなくてはならなかった理由とは?
良かったら上記の記事も読んでみてください。
キングスマン2初日に見に行きました
自分としては面白くないと思ったところが多くなぜこういう感想になった時考えたのが1と比べてしまったところが大きかったです
具体的には
・スパイガジェットとしての目新しさがない(前作より使うタイミングが容易に想像できてしまった)
・ステイツマンがキングスマンと肩を並べられるほど強い組織にあまり見えなかった
というところが大きかったです
ですがこのブログを読んでスパイ映画としての勧善懲悪なるものが今作はあまりなく共感しづらいものという意見をこのブログで読みまだまだ映画に対する読み込みが足りないなと思いました
管理人の批評を読んでもう一度見に行きたいと思ったので評価5押させてもらいます
@神コロさまさん
コメントありがとうございます!
前作が好きな人にとっても気にいる部分と気に入らない部分が混在している映画だったと思います。スパイガジェットは確かに自分も感じました。