アイキャッチ画像:(C)2018「嘘を愛する女」製作委員会 映画「嘘を愛する女」予告編より引用
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画「嘘を愛する女」についてお話していこうと思います。
1月13日に行われた試写会に参加したのですが、何とサプライズゲストで高橋一生さんと長澤まさみさんが登壇しまして、会場は騒然となりました。
高橋一生さん、長澤まさみさん共にお互いに対するリスペクトをすごく感じられる知性溢れる話しぶりで感動しました。映画についてのコメントは後ほどご紹介しようかと思います。
2人は、長澤まさみさんが16歳?高橋一生さんが19歳?の時に、「世界の中心で愛を叫ぶ」で初共演したそうですね。それ以降も舞台等で共演を重ねてきたそうです。
それ以来お互いの活躍を陰ながら応援していたそうで、長澤まさみさんが最近売れっ子の高橋一生さんに対して、「高橋一生さんが『みんなの高橋一生』になったことが嬉しい。」と仰っていたのが印象的でしたね。
高橋さんの長澤さんに対するコメントも、非常にリスペクトが感じられ、良いコンビだなと思いました。
そしてもちろん映画本編も素晴らしかったと思います。見終わった直後はふわっとした印象だったのですが、見終わった後に噛みしめれば噛みしめるほど深い味わいがする映画だったと思います。
途中から本編のネタバレも少し含む内容になりますので、「ネタバレ注意」と表記している以降の内容は映画を鑑賞してから読んでいただけると嬉しいです。
良かったら最後までお付き合いください。
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あらすじ・概要
長澤まさみと高橋一生が共演し、恋人の大きな嘘に翻弄されるキャリアウーマンの運命を描いたラブサスペンス。
オリジナルの優れた映画企画を募集する「TSUTAYA CREATORS’ PROGRAM」の第1回でグランプリを受賞した企画を映画化した。
食品メーカーに勤める川原由加利は、研究医である優しい恋人・小出桔平と同棲5年目を迎え、公私ともに充実した日々を送っていた。
そんなある日、自宅で桔平の帰りを待つ由加利のもとに、警察が訪ねてくる。桔平がくも膜下出血で意識を失っているところを発見されたのだが、桔平の所持していた運転免許証や医師免許証はすべて偽造されたもので、職業も名前も全てが嘘であると判明したのだ。
ショックを受けた由加利は桔平の正体を突き止めるべく、私立探偵の海原匠と彼の助手キムに調査を依頼。やがて、桔平が書き溜めていた700ページにも及ぶ未完成の小説が見つかる。
その内容をもとに、いまだ病院で眠り続ける桔平の秘密を探るため瀬戸内海へと向かう由加利だったが……。
「ゆうちょ銀行」など数々の人気CMを手がけた中江和仁が長編映画初メガホンをとった。
(映画com.より引用)
本作は監督である中江さんが、「夫は誰だった?」というとある新聞記事を見て、それに着想を得て書き上げたオリジナル脚本だということです。小説版は既に発売されております。
ただ小説版は映画版のアナザーエンド的な扱いになっていて映画版とは異なる部分が散見されます。
予告編
舞台挨拶での映画に関するコメント
高橋一生さんの演じる小出桔平は、先ほどのあらすじにもありましたが、冒頭にくも膜下出血で倒れて、意識不明の重体になってしまうんですね。
ですので、高橋一生さんはベットで横になっている場面が多かったんですが、どうやら役に入り込みすぎてか本当に意識が飛びそうになっていたようです。単純に眠かっただけなのかもしれませんが。
そのため、時々長澤さんに「高橋さん!」と起こされていたようです。
他にも長澤さんが撮影中の吉田鋼太郎さんについてのエピソードを語っていました。長澤さんが瀬戸内の黒木瞳さん演じる女将マサコが経営している小料理屋に行くシーンがあるんですが、このシーンを撮影しているときに、近隣の人たちが集まって来たみたいなんですね。
その中には若いやんちゃな青年達も多かったそうで、撮影現場が騒がしくなってしまって撮影に支障をきたすレベルになってしまったみたいです。
その時に、そのシーンには出ていない吉田さんがその若い青年たちに「飲みに行こうぜ!」と声をかけて、少し離れた店に連れて行ってくれたみたいなんです。長澤さんはそんな姿に感銘を受けたそうです。
感想:長澤まさみと高橋一生はすごい
(C)2018「嘘を愛する女」製作委員会 映画「嘘を愛する女」予告編より引用
本作の最初の予告編を見た時は、すごくミステリー色が強い作品を想定していたんですが、2つ目の予告編を見ても分かるように、ミステリー中心というよりはラブストーリー、ロードムービー色も強い作品にもなっています。
さらに冒頭の何気ないシーンやセリフが後半で実は大きな意味を持っていたんだと分かる、ストーリー構成も見事だと感じました。
また本作は長澤まさみさん、高橋一生さんという一流の俳優でなければ、実現できなかったと思います。
高橋一生さんの登場するシーンで、特に印象的だったのは彼の表情です。高橋さんは言語化できない感情を表情だけで、説得力と質感のあるものとして我々に現前させることができる稀有な俳優だと思います。
作中でもいくつか印象的な表情がありましたし、彼の表情の裏に何が隠されていたのかを映画を見終えてから思い返してみると、思わず身震いしてしまいます。またとあるシーンの迫真の表情には、見ていて思わず鳥肌が立ちました。
長澤まさみさんも言うまでもなく迫真の演技だったと思います。特に本作の長澤さんの登場するシーンは長回しも多かったように思います。
長回しや長ゼリフをしなやかにクリアするだけでなく、その演技力でもって「行間」を可視化することに成功していたと思います。
この2人の圧倒的な演技力が無ければ、本作は成立しえなかったと思います。
また映像面も、邦画ではなかなか見られないような高級感のある映像で、1つ1つのカットが美しく、そして力強い印象でした。映像だけでも十分に見る価値のある作品だと思いますね。
ここまでは本編のネタバレに踏み込まず、事前情報で出回っているところまででお話してみました。
ぜひぜひ劇場に足を運んで、作品をご覧ください。
*ここからは本編のネタバレになる内容を含みます。
*ここからは本編のネタバレになる内容を含みます。
解説:小説版とは異なる物語
小説版がすでに発売されていることは先ほどご紹介しました。
ただこの小説版、映画とは異なっている部分が多く存在します。
大きく異なるのが、映画版では基本的に物語が由加利視点で動くんですね。そのため由加利から見ることができるのは、知り得た情報を頼りにする断片的な情報だけです。
一方で小説版は桔平の視点から描かれたパートが多く存在します。桔平の元妻は映画版ではトラックにはねられて絶命しましたが、小説版では裁判で罪に問われ、後に公判中に命を絶ったという経緯になっています。
そして由加利との出会い以降の物語も小説版では桔平視点で描かれています。桔平がどんな思いから由加利と付き合うようになったのか?などが小説版では分かりやすくなっています。
また、桔平が倒れた日の真相も映画版では不明瞭なままですが、小説版は桔平視点で描かれているため明確になっています。
ラストも映画版では桔平は目を覚ましますシーンですが、小説版では桔平の意識の視点から描かれています。
比較してみますと、小説版は桔平から見た物語、映画版は由加利から見た物語になっていて、2つを合わせることで1つの物語になるように感じました。
ただ映画版の高橋一生さんの演技力がここで生きてきましたよね。彼の素晴らしい演技のおかげで、小説でしか描かれていないような記述もあの映像から何となく読み取ることができました。
くどくどと桔平の真実を説明してしまうのではなく、そのあたりの真相は映像に託してしまおうという監督の大胆な采配が効いていましたね。
本作がミステリーではなく、ラブストーリーだという所以も原作と映画を比較すると分かりやすい四思いました。大切なのは「真実」ではないんだと思います。
感想・解説:愛と赦しの物語。
本作はミステリーというよりも、ラブストーリーという側面の方がやはり強いと個人的には思いました。
「夫は誰だった?」という新聞記事に監督は着想を得たそうですが、桔平(この名前も偽名だが)が由加利にどんな「嘘」をついていたのか?それを解き明かすことが本作のゴールではないんです。
由加利は桔平の正体を知るために、少ない手がかりを元にしまなみ海道沿いを旅していきます。
当初は、自分のことを騙していた夫の正体を暴いてやろう!という思いが由加利の中で大きかったと思います。しかし旅をしていくうちに、真実に近づいていくほどに、その思いが揺らいでいきます。
真実にたどり着くことへの純粋な恐怖、自分は真実を知ってどうしたいのか、桔平が自分に向けてくれた愛も自分が桔平に注いだ愛も嘘だったのか。
いろいろな思いが彼女の中で渦巻き、次第にその思いが変化していきます。旅路の中で登場人物の心理的な変容を描くのがロードムービーの真髄ですから、本作はそういう点ではロードムービーの基本をしっかりと捉えています。
そして印象的だったのが、終盤の由加利のセリフですよね。
桔平がかつて家族と共に暮らしていた家にたどり着き、その近隣の住民に「あんたは誰なんだ?」と尋ねられると、彼女は「彼の妻です。」と答えました。このセリフは、どんな真実が、運命が待ち受けていても彼を愛するんだという彼女の決意の表れだったと思います。
彼の嘘を暴くために始まった旅が、最終的には彼を愛するための旅へと変容しています。このような旅の意義のフレキシブルさも本作のロードムービーとしての完成度を高めています。
そして自らの嘘を告白し、そして彼の嘘をも受け入れました。彼の本名を知ってもなお「きっちゃん」と呼びかけている姿も印象的です。
本作を由加利視点でとらえるならば、それは「愛」の物語だったと締めくくることができます。
一方で、桔平は2011年の3月11日に駅で苦しがっていた由加利を助けます。そして由加利の申し出から2人は同棲を始めます。収入が少なく家賃を負担できない代わりに、桔平は家事等を手伝うようになります。
しかし、桔平はくも膜下出血で倒れ、意識不明になってしまいます。そして彼のついてきた嘘が由加利に露呈いてしまうこととなります。
由加利は桔平の真実に近づいていきます。そこに隠されていた衝撃の過去。桔平が発していた「そんなに仕事して何か意味があるの?」「俺にはそんな(子供を持つ)資格がないから。」といった発言の趣旨が最後の最後でようやく明らかになります。
彼は、自分の家族があんな形で崩壊してしまったことを「罪」として心に秘めてずっと生きてきたんだと思います。だからこそ由加利が向けてくれた純粋な愛に誠実に応えることが怖かったのです。
そんな恐れから出会い系サイトで心葉という女性にも手を出してしまいました。彼は、それが発覚することで、由加利に拒絶されれば楽なのに・・・なんてことも考えていたのかもしれません。
それでも自分は愛している。由加利のことを愛していて・・・。でも家族をあんな悲劇的結末に導いてしまった自分に幸せになる権利も、家族を持つ権利もない。そんな思いがぐるぐるとしていたのだと思います。
そして彼が倒れた日、その日は由加利の母親と面会をする日でした。母親と会うということはつまり「結婚」の二文字がちらついてきたということですよね。しかしそれは彼には赦されないことでした。そのため、彼は由加利と母親の下には現れませんでした。
(C)2018「嘘を愛する女」製作委員会 映画「嘘を愛する女」予告編より引用
瀬戸内のとある灯台の下に彼が幼少の頃に隠したマジンガーZのフィギュア。
彼は倒れる直前に、あのフィギュアを再び手に入れたいとインターネットオークションサイトを見ていましたよね。
自分の「罪」が詰まったあの場所に隠した思い出の品を自分の手元に置こうとする行為は、彼が「罪」から逃げることを止めて、由加利と共に前に進もうという決心の表れだったのかもしれません。
赦されない、でも赦されることならば、由加利を愛して、共に生きていきたい。
そんな彼の切なる願いが小説に込められ、それが由加利に届くことになります。
確かに桔平が過去に犯した「罪」というのは、赦されないことなのかもしれません。しかし、時間はそれをも癒してくれます。
本作を桔平の視点から捉えるならば、それは「赦し」の物語だったと言えます。
「罪」を赦しながら2人で少しづつ前進していこうという、希望に満ちたラストシーンに涙が止まりませんでした。
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語らないことの凄さ
(C)2018「嘘を愛する女」製作委員会 映画「嘘を愛する女」予告編より引用
先ほど小説版を紹介しましたが、あの小説版を読むと映画「嘘を愛する女」がいかに映画的に優れているかということがよく分かります。
というのも小説と言うのは、文章でもって明示化することで、その文章から見えない何かを可視化させるメディアです。一方で、映画は、映像で見せることで、見える何かから不可視のイメージを探るメディアだと思うのです。
この違いがどう関係してくるのかと言いますと、その特性上、小説では許されていた回りくどい説明やセリフも、映画に持ち込んだ瞬間に一気に野暮で蛇足なものへと姿を変えるんですよね。
ですから、映画においてはある程度の「省略」が必要で、いかに映像だけでその「省略」した部分を観客にイメージさせられるか?がポイントになると思うんです。
その点でこの「嘘を愛する女」という作品の映画版と小説版を比べてみると、すごく興味深いんです。小説版ももちろん素晴らしい出来で、映画版では描かれなかった内容を補完することができるようになっています。
しかし、小説版でしか描かれなかった「行間」を映画が表現できてないか?というとそうではないんですよね。
例えば、この映画のファーストカットを覚えていますでしょうか?駅で体調を崩した由加利の下に駆けつけるか否かの葛藤をしている、桔平の足のカットなんですよね。
雑踏の中で足を止めて、でも再び歩き出そうとして、でもどうしても放っておけなくて・・・結局は由加利のところに駆け寄ってきます。小説版では、この部分の桔平の心情が文章として明示化されています。ただ、映画版のこのカットはその小説版の記述を、語ることなしに我々にイメージさせます。
(C)2018「嘘を愛する女」製作委員会 映画「嘘を愛する女」予告編より引用
全ての繋がりを捨てて、東京にやって来た桔平。人とのかかわりを避けたいはずなのに、駅で体調を崩している由加利を見て、自分の医者としての使命を思い出したのでしょうか?このあたりの心情の葛藤をあの桔平の足元の映像だけで我々に見せてしまうわけですから、秀逸です。
また、先ほども触れた由加利の「彼の妻です。」という発言もそうなのですが、この映画には「愛してる」という言葉がほとんど登場しないんですよね。
探偵の匠がラストシーンで娘と再会した時に、娘が言うセリフもそうですよね。「多分、99.999%お父さん」。病室で由加利が意識を失っている桔平に語りかけるシーンもそうです。「愛してる」とは告げないんです。
これが非常に上手いなあと思ったポイントなんです。このように「愛してる」の言葉を行間に落とし込んでしまう監督のセンスに脱帽しました。それを明言しなくても、キャスト陣の演技(表情・仕草さ)や演出だけでそれを我々にイメージさせてくれます。
他にも小説版では記述されていて、映画版では映像に託されているパートが多くあります。ぜひぜひ見比べてみて、この映画の映画的素晴らしさを体感してみてください。
解説:芥川と太宰
劇中で桔平について「芥川」「太宰」と評するシーンがありましたが、これは言うまでもなく芥川龍之介と太宰治のことですよね。
この2人は日本の文学を代表する2人とも言えますが、同時に「自殺」「心中」という言葉が付いてまわる文豪でもあるんですよね。芥川龍之介は秘書の女性との心中未遂を起こしていますし、最期は服毒自殺をしています。一方の太宰治も心中、自殺未遂を何度も経て、最期は入水心中を選びました。
このような人物たちが桔平に重ねられたことも本作の展開を暗示していたかのようですね。
解説・考察:3.11と赦し
(C)2018「嘘を愛する女」製作委員会 映画「嘘を愛する女」予告編より引用
本作で、個人的に注目したのが、由加利と桔平が出会った日が東日本大震災の起こった2011年の3月11日なんですね。わざわざこの日付にしたのは、間違いなく何らかの意図があってのものだろうと勘ぐってしまうわけです。
そこで今回は、その点について少し考察を加えていくのですが、本稿では東日本大震災をある種の象徴的なものとして捉えたうえで進めていきます。そういう捉え方はどうなんだ?という方もいらっしゃるとは思いますが、一つの見方として読んでやってください。
本作は東日本大震災とそれに伴って生じた大規模な津波をある種、「創世記」の大洪水的なモチーフとして登場させているのではないかと考えました。
「創世記」の大洪水は唯一神ヤハウェが、お互いに争うようになってしまった人類を創造したことを自分の「罪」だと捉え、それを洗い流すために引き起こした災害だと言われています。
東日本大震災は確かに未曽有の災害で、多くの人の命を奪い、その生活を跡形もなく消し去ってしまいました。そんな光景がテレビに映し出され、日本中の人々が絶望感に打ちひしがれたことは言うまでもありません。
ただ、作中の登場人物である桔平にとってその光景は違ったものに見えていたのかもしれません。彼はあの津波を、ノアの大洪水に重ねていたようにすら思えます。
彼はかつて瀬戸内の海が見える町に住んでいました。そしてそこで自分の家族を失いました。彼はあの海辺の町に自分の後悔と深い悲しみと強い罪悪感を残してきていました。そんな彼には、津波が一瞬で人間の生活を壊していく様が、自分があの町に、あの家に残してきたものを洗い流してくれるように見えたのかもしれません。
「創世記」の大洪水が人類のリセットになったように、東日本大震災の津波が、彼にとっては自分の人生のリセット、過去の清算のように捉えられたのではないでしょうか。
そんな時に、由加利という女性に出会うのも運命的なものを感じますよね。
「3.11」が本作では、彼にとっての「赦し」のモチーフとして描かれたのかもしれません。
主題歌「つなぐもの」に込められた思い
(C)2018「嘘を愛する女」製作委員会 映画「嘘を愛する女」予告編より引用
映画「嘘を愛する女」の主題歌を担当したのは、松たか子さんでした。そしてなんと作詞をしたのはドラマ「カルテット」や現在放送中の「anone」の脚本家としても知られる坂元裕二さんです。
であれば、間違いなくこの主題歌にも作品に関する重要なメッセージが込められているのではないかと考えてしまいますよね。
私がこの歌を聴いて、最初に感じたのは人間と人間を繋げるものは何気ないものなんだというメッセージ性ですね。
時刻表のしるし
シャツの変なたたみ方
ここにいることを思い出す
つつみ つむぎ つづけ つなげるもの
(「つなぐもの」作詞:坂元裕二,作曲:松たか子 より引用)
時刻表についたしるし、シャツの変なたたみ方、何気ないことなんですが、恋人同士が一緒に暮らすということはそんな何気なく、でも愛おしい「違和感」を重ねていくことだと思うんです。そしてそれが2人を「つなぐもの」なんです。
もしもきみのいない星
シーツに残る体温がさめても
どうか探し出して
(「つなぐもの」作詞:坂元裕二,作曲:松たか子 より引用)
「きみ」と一緒に寝たベッド。シーツに残る「きみ」の体温が「きみ」の不在を寂しく思わせます。そしてその寂しさこそが「愛」なのだと実感させられますね。
そして終盤の歌詞では、これからも2人は何気ない日常の「違和感」を重ねながら、そこに愛おしさを見出し、共に人生を歩んでいくんだという思いが綴られています。
どんなに嘘で塗り固められていたとしても、2人の間に在った「愛」だけは本物だった。そして嘘を受け入れて、「愛」を信じていこうという希望に満ちた本作のエンドロールにこの歌がすごくマッチしますね。
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おわりに
私が本作を見ていて、思い出したのは「メッセージ」という昨年の映画ですね。
そして映画「嘘を愛する女」も間違いなく「愛」の物語でした。愛する人の嘘も隠してきた過去も全てを知った上で、何を信じますか?そしてその人を愛せますか?という究極の問いかけが投げかけられます。
由加利が最終的に信じたのは、「シーツに残るきみの体温に感じた寂しさ」だったのです。一緒に積み上げてきた何気ない日々の喜び。ふとそれを失った時に感じた寂しさ。自分は心から桔平のことを愛していたのだと悟りました。そして桔平も由加利を愛そうとしてくれていました。
どんなことがあっても相手を「赦し」、そして「愛」を信じて前に進もうという力強い作品になっていたと思います。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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