【ネタバレあり】『羊の木』:感想・解説:脱パサージュ論とのろろさまがもたらす救済としての死について考察

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね本日より公開になりました映画「羊の木」についてお話していこうと思います。

いわゆる「ぼのぼの」系ですが、非常に深く考えさせられる作品ですよね。

田舎の小さな町を舞台にしたミステリではありますが、それぞれの人物に裏があり、それ故に非常に恐ろしい作品です。

そんな本作について今回は自分なりの考察を書いていけたらと思います。

記事の中で作品の解説や考察を書いていく都合上内容のネタバレを一部含みます。

作品を未鑑賞の方はお気を付けください。

良かったら最後までお付き合いください。




『羊の木』

あらすじ・概要

「桐島、部活やめるってよ」吉田大八監督錦戸亮を主演に迎え、山上たつひこ原作・いがらしみきお作画の同名コミックを実写映画化したヒューマンミステリー。

寂れた港町・魚深にそれぞれ移住して来た6人の男女。

彼らの受け入れを担当することになった市役所職員・月末は、これが過疎問題を解決するために町が身元引受人となって元受刑者を受け入れる、国家の極秘プロジェクトだと知る。

月末や町の住人、そして6人にもそれぞれの経歴は明かされなかったが、やがて月末は、6人全員が元殺人犯だという事実を知ってしまう。そ

んな中、港で起きた死亡事故をきっかけに、町の住人たちと6人の運命が交錯しはじめる。

月末の同級生・文役に木村文乃、6人の元殺人犯役に北村一輝、優香、市川実日子、水澤紳吾、田中泯、松田龍平と実力派キャストが集結。「クヒオ大佐」香川まさひとが脚本を手がける。

映画comより引用)

予告編

ナガ
ぼのぼの系映画の傑作だよね!!




『羊の木』感想・解説・考察(ネタバレあり)

序盤の脚本・構成は超ハイレベル

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(C)2018「羊の木」製作委員会 (C)山上たつひこ、いがらしみきお/講談社 映画「羊の木」予告編より引用

本作において個人的に最も評価したいのは序盤の登場人物紹介パートなんですね。

ここは映画的に極めてハイレベルな脚本・構成・演出だったと思います。

冒頭の時点で、錦戸亮演じる月末は魚深にやってくる6人の男女がもと殺人犯で仮釈放中の身であることは知りませんでした。そして映画を見ている我々もそれを知らない状態です。

そのため我々は次々に町にやって来る登場人物たちの様子に一抹の不可解さを感じてしまう月末の心情を追体験できるようになっているわけです。

提供されたラーメンを早食いする福元。甘いものを幸せそうに頬張る太田。新聞紙を丁寧に伸ばす栗本。これらは全て刑務所特有の癖とも言えます。

食事の時間が限られているために受刑者は早食いになりがちと言われます。また刑務所では、甘いものや味の濃いものが献立に登場しないために、釈放されるとついそういったものと食べたくなるとも言われています。

このように何気ない仕草ですが、見ている我々に落ち着かなさを感じさせ、うっすらと刑務所の存在をちらつかせる観客心理の煽り方が非常に上手かったように感じました。

また登場人物の説明という点でも序盤のパートは非常にスマートでした。

というのも月末の「いいところですよ。人も良いですし、魚も美味しい。」というワンフレーズを6人の登場人物全員にぶつけることで、その微妙な反応の違い、表情の機微から彼らの性格や人間性が何となく比較できるようになっているからです。

登場人物の紹介に使うパートのテンポが悪く、間延びしている作品をしばしば目にしますが、本作「羊の木」はその辺りが非常にスマートでかつレベルの高い仕上がりになっていました。

過疎化地域と脱パサージュ論

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(C)2018「羊の木」製作委員会 (C)山上たつひこ、いがらしみきお/講談社 映画「羊の木」予告編より引用

かつてヴォルターベンヤミンが「パサージュ論」の中で指摘した19~20世紀にかけての都市における「群衆」の誕生。これがそもそものミステリーの始まりと言われています。

つまり群衆が誕生したことにより都市に個人の足跡が埋没するようになったがために、それを辿るというプロセスとしてのミステリーが生まれたわけです。

彼は「パサージュ論」の冒頭にある「パリー19世紀の首都」において以下のように述べています。

遊歩者の生活形式は、のちの大都市住民の悲惨な生活形式を、まだ仄かな宥和の光で包んでいる。

遊歩者はまだ大都市への、そして市民階級への敷居〔過渡期、移行領域〕の上にいる。

彼は、そのどちらにもまだ完全には取り込まれていない。そのどちらにも彼は安住できない。彼は群衆の中に隠れ家を求める。

群衆の観相学に関する先駆的な仕事は、エンゲルスとポーに見られる。群衆とはヴェールであり、見慣れた都市は幻像(ファンタスマゴリー)と化して、このヴェール越しに遊歩者を招き寄せるのである。

(「パリー19世紀の首都」:ヴォルターベンヤミンより)

遊歩者というのはつまり足跡を残すことなく、群衆の中を行き来する者の総称と言えます。群衆とはベールであるとも書かれていますが、まさにその通りで「人を隠すなら人の中」という考え方がこの時に誕生したとも考えられます。

資本主義時代のパリを象徴するパサージュという屋根付きの路地。そこを行き交う「名前」を持たない無個性な個人の集団としての群衆が、ミステリーを生んだのです。

一方で本作「羊の木」では、過密気味の都市を舞台に採用するのではなく、住民同士が全員顔見知りでもおかしくないような過疎寄りの田舎町を舞台に採用しています。

つまり本作はあえて都市的群衆が存在しない地域に元殺人者を解き放つという実にミステリーのセオリーからは外れた初期設定になっています。

まあ仮釈放中の受刑者を住まわせるわけですから、足跡が埋没してしまう都市部に解き放つのはまずいという常識的な前提があるのはまず1つですが、それだけではないと思います。

このある種の脱パサージュ論的設定が本作の肝になっていると考えられるのです。今回はこの点を私の主張の核として、様々な解説や考察をさせていただけたらと思います。

 

キリスト教的羊と東タタール旅行記

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(C)2018「羊の木」製作委員会 (C)山上たつひこ、いがらしみきお/講談社 映画「羊の木」予告編より引用

本作の冒頭に「東タタール旅行記」という書物からの引用文が掲載されていました。

その種子やがて芽吹き タタールの子羊となる

羊にして植物

その血 蜜のように甘く

その肉 魚のように柔らかく

狼のみ それを貪る

これをどう読み解くかというのがもちろん本作においては重要になってくると思います。

キリスト教の世界において羊という生物は重要な意味を持っています。

まず聖書の中では、群衆を子羊、イエスを羊飼いとすることが非常に多いです。人間は迷いやすく、1人では生きていけない存在として子羊に例えられます。そんな子羊たちを救いへと導くのが羊飼いとしてのイエスというわけです。

ただそんな子羊たちの命を貪る狼のような存在が子羊の中に紛れ込んでしまうと、命が搾取されてしまう関係性が構築されてしまいます。

無抵抗な植物由来の子羊たちは、肉食で素早い狼に対抗することができません。

一方でキリスト教世界においてはイエスもまた「神の子羊」と例えられることがあります。

これはイエスが十字架に架けられて、原罪を背負って生贄として一度命を落としたことに関連しています。




子羊たちにもたらされた救いとのろろさまの復活

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(C)2018「羊の木」製作委員会 (C)山上たつひこ、いがらしみきお/講談社 映画「羊の木」予告編より引用

イエスは「罪人こそ私の救いを必要としている。」という考え方を持っていたとされています。つまり本作において「子羊」として扱われたのは、杉山と宮腰を除く罪を抱えた人たちだと思います。

そして「神の子羊」として扱われていたのが「のろろさま」ではないかと考えています。

一方で「狼」として扱われたのは杉山や宮腰といった登場人物だと思います。

これを前提として物語を読み解いていきます。さらには、ここで本作が脱パサージュ論的方向性に向かう作品であることを再度明記しておきます。

本作において「迷える子羊(罪人)」が他の羊たち暮らしていく上で、過去に犯した罪というものが大きな障害になります。

つまり彼らは過去を隠すことでしか、自分の過去を他人に見られないようにすることでしか「群れ」に馴染む事ができないのです。

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(C)2018「羊の木」製作委員会 (C)山上たつひこ、いがらしみきお/講談社 映画「羊の木」予告編より引用

この「迷える子羊」たちの姿は魚深の土着の神である「のろろさま」の存在に非常に似ています。

「のろろさま」はその姿を見ることで災いが起こるということで、住民たちに恐れられ、姿を見られることもありませんでした。

確かにパサージュ論的な都市の群衆の中であれば、自分の足跡が残りませんから、正体をひた隠しにして群衆という名のベールに隠れてしまうことが可能です。というのもパサージュにおいて他者との共生は課題にならないからです。

一方で脱パサージュ論的な過疎化した田舎という舞台は自分の足跡を消す事ができないんですね。

狭いコミュニティで結びつきも強いからこそ、群衆が存在せず、隠れ蓑が存在しません。

つまり、自分の見られたくない足跡を見られないようにするということが非常に難しいのです。

こういう脱パサージュ論的なコミュニティで生活していく上では、自分という存在を明確にすることでしか他者との共生を図ることはできません。というのも足跡が分からない人物がいれば、すぐに怪しまれてしまうからです。

「のろろさま」のように人から見られないようにして生きていくことが不可能なコミュニティで殺人犯たちは何とかそれぞれに居場所を求める努力をします。

それに応える形で、自分の素性を明かしても魚深の人たちは「迷える子羊」たちを自分たちの「群れ」に加えてあげようとします。

その一方で「群れ」に溶け込むことを拒む狼がその中に混ざっていました。

杉山は魚深の生活に退屈し、再び犯罪行為に手を染めようと画策しています。宮腰は月末や石田が素性を明かしてもなお受け入れようとしてくれた善意を跳ね除けて、再び殺人へと傾倒していきます。

そして物語は終盤へと向かいます。岬の上から飛び降りた月末と宮腰。海面に浮上した宮腰の頭上に「のろろさま」の頭部が落下し彼は命を落としてしまいます。

頭部が切除されることはすなわち「死」を意味します。

「のろろさま」は自らを生贄に捧げることで、羊たちを守り抜いたのです。

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(C)2018「羊の木」製作委員会 (C)山上たつひこ、いがらしみきお/講談社 映画「羊の木」予告編より引用

さらにはラストシーンではクレーンでその頭部が海から引き揚げられ、まさにイエスの復活を想起させるような復活劇を魅せました。ここで「のろろさま」は既に人々から見られることもなく、忌み嫌われる神では無くなっています。その頭部が引き上げられると、多くの人の注目を集め、大きな歓声が上がりました。

これはまさに魚深にやって来た殺人犯たちへの「救済」という意味合いが強いシーンになっています。彼らは自分の見られたくない過去をもう隠す必要は無くなったということです。

彼らにはそれを知られたとしても受け入れてくれる人がいます。

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(C)2018「羊の木」製作委員会 (C)山上たつひこ、いがらしみきお/講談社 映画「羊の木」予告編より引用

福元には同じく元犯罪者の整髪店店長が、大野には自分をかばってくれるクリーニング店の女店長が、太田には自分を愛してくれる月末の父親がいます。

自分の見られたくない部分を隠し、人から見られないようにせずとも、それすら受け入れてくれる人が、居場所が彼らにはできたのです。その姿は魚森の人々から歓迎された「のろろさま」の姿にダブります。

一方で他の殺人犯たちにも本作では「救済」が与えられています。

栗本は魚や雀、亀といった生き物を供養することで、自分が他人の命を奪ったことに対する償いをしているように見えました。そしてラストシーンで彼女の住居の脇に作られた生き物のお墓から小さな芽が出ていることに気がつきます。

これが彼女にとっての何よりの「救済」です。

また、作中で命を落とした杉山や宮腰にも本作は「救済」を与えています。

「のろろさま」はイエス的な神性を持つ存在として罪人にも「救済」を与えないはずがありません。

彼らにとっての「救済」は死です。

2人はもはや魚深ないし人間の世界そのものに自分の居場所があるとは感じていません。

エンドロールで流れた曲は”Death is Not End”という楽曲です。

つまり「死は終わりではない」ということです。死ぬということは彼らにとっては不幸なことというよりも自分が存在するに適した世界へと旅立ったとも見ることができるわけです。

6人の殺人犯たちと元刑務所の整髪店店長を合わせた7人は罪を背負って、魚深という土地に種として撒かれました。そしてその土地に生きる羊として芽が出たのは5匹(人)でした。栗本が海岸で拾った羊の木の絵には、5匹の羊が描かれていましたが、これは杉山と宮腰以外の5人のことを指しているのだと思います。

そして魚深で芽が出なかった杉山と宮腰は死して、また別の世界に種として撒かれるのでしょう。2人は死して、新たな世界へと旅立ったのです。

☆質問がありました、宮腰が殺した子供の父親の救いについてお話しておきます。

あのお父さんは宮腰が息子殺害当時、未成年だったために逮捕されず、正当な裁きが下されなかったことに深い後悔と怒りを感じていたように思います。

そのため彼が人を殺したという証拠を自らの死でもって、その手に握りしめたボタンでもって獲得したように思います。

そして彼は愛する息子と同じ世界へ旅立ちました。これも1つの救いだと、私は考えました。

殺人をしたという事実は消えませんし、殺人は許される行為ではありません。

しかし、いろいろな事情が重なって極限まで追い込まれた人間が不意に人を殺めてしまうことがあるやもしれません。

そうした場合、その人はもう金輪際許されることは無いのでしょうか?人間の世界に居場所を求めてはいけないのでしょうか?

これは非常に難しい問題です。絶対的に正しい、絶対的に間違っているということはあり得ないのです。ただ本作においてはそれを神的な領域からジャッジするという視座を据えています。

「のろろさま」は罪人も含めて全ての人に救いをもたらします。その「救い」というものがどんな形で訪れるのかは人それぞれです。死もそんな「救済」の一種なのです。なぜなら「死は終わりではない」からです。

全ての命はどこかで芽を出し、羊となり、自分の居場所を獲得することができます。本作「羊の木」は人の生死を神が司り、神の意の下でそれが提示されるのではいないか?という世界観で作られた作品と言う風に私は解釈しました。

皆さんは本作をどのように解釈しましたか?




おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『羊の木』についてお話してきました。

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(C)2018「羊の木」製作委員会 (C)山上たつひこ、いがらしみきお/講談社 映画「羊の木」予告編より引用

かなり抽象的な主張になってしまいましたが、要約すると人は「居場所」が無ければ生きていけない生き物だということです。

「パサージュ論」においては居場所を持たない遊歩者的存在が出現したとありますが、結局人は羊のように「群れ」でしか生きていけない生き物なのです。

都市の、群衆のベールに身を包んで自分の足跡を隠したままで「居場所」を得ることはもはや不可能なのです。

他者と共生するには、自分をどんどんと可視化していかなければなりません。「居場所」を得ることで、その場所で「羊の木」として芽を出し、社会的に生を受けることができるわけです。

相手を深く知ることはとても難しく、痛みを伴います。

深く知れば知るほどにその人から離れていくような気がすることもあります。

それでも他者と生きていくためには相手を深く知らなければなりません。そんなジレンマが本作には色濃く反映されているように感じます。

そしてその一方で、「居場所」を見出せなかった人は、「死」を媒介としてまた他の場所に種を撒かれるのかもしれません。彼らもどこかで「居場所」を見出し、救われるのです。

死は終わりじゃない。誰しもが救われる。「羊の木」とは神が司る生と死の輪廻の象徴であり、「救済」のモチーフとも言えるでしょう。

さて、最後に余談ではあるのですが個人的に一つ気になったシーンがありまして、それは宮腰が軽トラックで杉本を轢き殺そうとするシーンですね。このシーンを見て思い出したのが映画「プロメテウス」です。

映画「プロメテウス」では宇宙船が落下してくるシーンで横方向に逃げれば良いのに、ひたすら縦方向に逃げ続けて結果的に宇宙船の下敷きになってしまいました。

本作「羊の木」でも杉本が軽トラックから逃亡するシーンでひたすら直線方向に逃げるんですよね。

直線勝負なら人が車に勝てるはずがないじゃないですか。どう考えてももっと方向転換しながら逃げたり、建物の方に逃げるなりした方が生存の可能性が高まったと思います。

映画でありがちなこの無能逃亡演出はいつも笑ってしまいますね。せっかく緊迫感のあるシーンだったのですが、正直ゲラゲラと笑ってしまいました。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

 

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