目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね いよいよ2月16日から映画「リバーズエッジ」が公開されるということで、原作の魅力をできるだけ本筋のネタバレ無しでお話していこうと思います。
深い考察を進めていく際に、ネタバレに触れることがあると思いますが、その際は改めて記載させていただきます。
良かったら最後までお付き合いください。
あらすじ・概要
1993年に雑誌「CUTiE」で連載されていた岡崎京子の同名漫画を、行定勲監督のメガホン、二階堂ふみ、吉沢亮の出演で実写映画化。
女子高生の若草ハルナは、元恋人の観音崎にいじめられている同級生・山田一郎を助けたことをきっかけに、一郎からある秘密を打ち明けられる。
それは河原に放置された人間の死体の存在だった。
ハルナの後輩で過食しては吐く行為を繰り返すモデルの吉川こずえも、この死体を愛していた。
一方通行の好意を一郎に寄せる田島カンナ、父親の分からない子どもを妊娠する小山ルミら、それぞれの事情を抱えた少年少女たちの不器用でストレートな物語が進行していく。
ハルナ役を二階堂ふみ、一郎役を吉沢亮がそれぞれ演じる。
(映画com.より引用)
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予告編
キャラクター紹介
今回は映画公開に際して、記事を書いているので映画の方に合わせてキャラクターを紹介していこうと思います。
若草ハルナ
(C)2018映画「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
本作の主人公。宿便と生理痛に悩まされるサバサバとした性格の高校生。同級生の観音崎と付き合っていた。
観音崎が普段からいじめている山田を助けたことがきっかけで、彼との不思議な関係性を発展させていくこととなる。暴力的で、性的な行為にしか興味が無い観音崎に愛想をつかしつつ、徐々に山田と合うことが増えていく。
そんな時に山田が自分の秘密として大切にしているという河原に放置された死体を見ることとなる。
山田一郎
(C)2018映画「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
本作のもう一人の主人公。学校ではそれほど目立つタイプではないが、その容姿から女子生徒の間ではひそかな人気を誇っている。またそういった人気からか複数の女性と付き合っているという噂が上がっている。
しかし本人はゲイで、女性には性的な興味が無い。
観音崎たちにいじめの標的にされているが、そんな時に助けてくれた若草ハルナと不思議な関係を築くこととなる。
吉川こずえ
(C)2018映画「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
ハルナや一郎たちの後輩で、河原の死体の秘密を共有する人物の1人。高校生にしてテレビCMやドラマに出演するほどの人気モデル。
しかし、過食症・拒食症のような症状があり、大量に食べ物を食べては、それを嘔吐するという行為を繰り返している。そのため貧血でしばしば保健室で横になっている。
本人はレズビアンであり、ハルナに密かに思いを寄せている。
観音崎
(C)2018映画「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
ハルナが以前付き合っていた男。黒髪長髪で容姿は整っている。山田をいじめている張本人で、山田がハルナに近づくことで、嫉妬心を掻き立てられそれがエスカレートしている。
ドラッグを売り買いするなど非行も目立つ。
性行為に傾倒している節があり、ハルナに拒絶されると彼女の友達のルミと行為に耽っている。彼の方はハルナをまだ愛していて、復縁を迫っている。
田島カンナ
(C)2018映画「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
名目上は山田の彼女なのだが、山田はゲイであり、彼女のことをむしろ鬱陶しく感じている。
なんとか彼を振り向かせようと、デートに誘ったり、プレゼントを用意したり、お弁当を作ったりと積極的にアピールするが、彼には届かない。
そんな時に、山田がハルナと一緒に談笑しているところを目撃してしまい、嫉妬心に駆られる。
ルミ
(C)2018映画「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
ハルナの友人。日常的に援助交際や不倫を繰り返し、お金やブランド品を得ては自身の空虚感を満たしている。
両親があまり家におらず、太っているオタクの姉と一緒に暮らしている。
観音崎の家でシャブをキメて性行為に耽ることが多くなってきたある日、誰の子なのかも分からないまま妊娠が発覚する。
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解説:1994年に完結した原作をなぜ今実写映画化するのだろうか?
「リバーズエッジ」という作品は岡崎京子さんが執筆したマンガ作品で、連載が始まったのが1993年、そして完結したのが1994年です。
そんなカルト的な人気を誇って来た作品が2018年になって実写化されて映画として世に送り出されようとしています。
舞台は、はっきりとは明かされていませんが、どこかの大都市近郊で、近くには大きな工場地帯があること、そして河口付近であり海が近いことが明記されています。
工場排水などで淀み、異様な臭いを放つ河川、そしてその河原(リバーズエッジ)には、動物の死骸が転がっていたりするのです。建物の描写を見ているといかにも郊外のニュータウンという印象があります。
ニュータウンと言うと都市圏に通勤・通学する人が暮らしていて、多くの人々が生活の拠点にしている場所と言えます。つまり多くの人がそこで生きているわけです。
しかし、その一方で河原(リバーズエッジ)に行くと、死の臭いが漂っているわけです。生活排水、工場排水、生き物の死骸の臭い、排泄物、血液、体液・・・。いろいろな「生」と「死」が入り交じって濁り淀んだ水が、海に向かってゆっくりと流れています。
本作のキャラクターに据えられたハルナたちは高校生たちです。高校生と言うと青春真っ盛りで、人生はまだまだこれから、「死」とは縁遠い存在ということができます。
しかし、本当にそうなのでしょうか?「リバーズエッジ」という作品が突き付けているのは、そういう「生」の臭いに満ち溢れたティーンエイジャーたちに漂う「死」の臭いなのではないでしょうか?
例えば、観音崎は山田に対して暴力的に振る舞い、想像を絶するようないじめを実行しています。
彼が山田を敵対視するのは、嫉妬心からですが、彼が山田を殺しかねない勢いで暴力的になるのは、「死」というものに現実味がないからなんです。
「死」が自分たちからは縁遠いものだと思うからこそ、それが今の自分たちに降りかかることは無いだろうと高を括り、暴力行為をはたらくのです。
他にも本作では高校生の性行為描写が多く登場します。性行為と言うのはいわば生殖行為であり、つまり新たな「生」を生み出す行為であるわけです。
ただ、10代の妊娠においてはその8割近くが中絶という結末を迎えています。つまり10代の妊娠に、性行為に伴うのは本来の「生」の臭いではなく、「死」の臭いなのかもしれません。
このように本作はキラキラとした青春群像劇とは程遠い、「死」の臭いに満ち溢れた青春の暗翳を描き出しているわけです。
それを突きつけるのが河原に転がっている1つの死体です。
作中では死体が異様な存在感を持って描かれているのですが、読み進めていくうちに次第にそのインパクトが薄れて、まるで「死」がハルナたちの青春の一部であるかのように感じられます。
「リバーズエッジ」は1993年に連載が開始されたわけですが、現代の社会を見てみると、本作がまるで現代を先読みしていたかのような先見性を孕んでいることが分かります。
まずは日本における自殺率に注目して見たいと思います。
実は日本において若年層の自殺率は上昇を続けているんですよ。
この一因が本作「リバーズエッジ」にも登場するいじめ問題ですよね。近年いじめ問題が顕在化し、それに伴う自殺がニュースなどで取り沙汰されることが珍しくなくなりました。
その際にいじめた側の学生は決まって「自殺するとは思わなかった。」と発言するんです。
それはつまり学生にとって「死」というものが身近ではないからなんですよね。「死」がどんなものかイメージできないですし、自分の周りに突然起こるなんてことが想像できないわけです。
ただ間違いなく近年のこういった傾向によってティーンエイジャーたちに「死」という概念が遠からず、自分たちの身近なところにも潜んでいるんだということが浸透しつつあるように思います。
またこんなグラフも存在します。これは母親の年齢ごとに出生数をグラフ化したものですね。
これを見ると、出生総数の減少割合に比べて、ティーンエイジャー層の出生数の減少が穏やかであり割合として見るとほとんど下がっていないということが分かるんです。つまり若年層の性交経験率は減少傾向にあるものの、依然として若年層の妊娠・出産は大きな問題であるわけです。
「リバーズエッジ」が切り取った青春の暗部に潜む問題というのは、依然として現在も大きな社会問題であり続けている事柄であったり、むしろ悪化している事柄であったりするんですよね。
つまり1994年に若者たちのバイブルとなり得た本作は、2018年の若者たちのバイブルにもなる可能性が大いにあるわけです。つまり本作が持つ影響力と言うのは、1993~4年と今とでほとんど同等、もしかするとそれ以上なのかもしれないわけです。
だからこそこの作品を今を生きる若い世代に見て欲しいというのが、この企画が動き始めた最大の原動力だったのではないでしょうか?
解説:平坦な戦場で生き抜くこと
(C)2018映画「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
「リバーズエッジ」にはウィリアム・ギブソンの「愛する人(みっつの頭のための声)」の一節が印象的に登場します。
IN PLAGUE TIME
KNEW OUR BRIEF ETERNITY
OUR BRIEF ETERNITY
OUR LOVE
OUR LOVE KNEW
THE BLANK WALLS AT STREET LEVEL
OUR LOVE KNEW
THE FREQUENCY OF SILENCE
OUR LOVE KNEW
THE FLAT FIELD
WE BECAME FIELD OPERATORS
WE SOUGHT TO DECODE THE LATTICES
TO PHASE-SHIFT TO NEW ALIGNMENTS
TO PATROL THE DEEP FAULTS
TO MAP THE FLOW
LOOK AT THE LEAVES
HOW THEY CIRCLE IN THE DRY FOUNTAIN
HOW WE SURVIVE IN THE FLAT FIELD
THE BELOVED(VOICES FOR THREE HEADS) BY WILLIAM GIBSON
この街は悪疫のときにあって
僕らの短い永遠を知っていた
僕らの短い永遠
僕らの愛
僕らの愛は知っていた
街場レベルののっぺりした壁を
僕らの愛は知っていた
沈黙の周波数を
僕らの愛は知っていた
平坦な戦場を
僕らは現場担当者になった格子を解読しようとした
相転移して新たな配置になるために
深い亀裂をパトロールするために
流れをマップするために
落ち葉を見るといい
涸れた噴水を巡ること
平坦な戦場で僕らが生き延びること
「愛する人(みっつの頭のための声)」ウィリアム・ギブソン
この一節を読み解いていく上で、一番目に留まるのが「リバーズエッジ」の中でも何度も繰り返し登場する「平坦な戦場」という言葉なんです。
英語で見るとこれが一定の韻律の中で構成された文章であることは明白です。特に最後の2行には注目したいところです。
「HOW THEY CIRCLE IN THE DRY FOUNTAIN / HOW WE SURVIVE IN THE FLAT FIELD」この2つの文章は同じ意味になっているわけですよね。
つまり「平坦な戦場で僕たちが生き延びること」と「涸れた噴水の中で落ち葉が漂うこと」は同義であるとも言えるわけです。涸れた噴水に堕ちた葉はもうそこから出られません。そこに落ちたら最後噴水の中を漂うしかないのです。
平和な世の中が孕む平坦な戦場とは、決して外には出られないある種の地獄です。その中で精神をすり減らし、人は死んでいきます。
そんな平坦な戦場で生き残るために必要なのは、外に出ようとする意志ではもはや無いのかもしれません。なぜなら外には出られないからです。
凄惨たる悪習を放つ河に面したニュータウンは彼らの世界の全てです。彼らの青春はそこにしかありません。
だからこそそこで生き延びるには、友人が、恋人が、セックスが、ドラッグが、死体が必要なわけです。これらは全て彼らが平坦な戦場で正常を保つための手段なものです。
それが無いともはや人は狂ってしまうのです。
閉ざされた狭い世界が自分の世界の全てであるという青春時代独特の世界観を上手く表現した文章であり、「リバーズエッジ」の世界観を体現する文章とも言えますね。
まさに「リバーズエッジ」という作品は閉塞された世界で狂ってしまわないために、何かに「狂う」ことで青春の暗翳を生き抜く少年少女の物語と言えるでしょう。
*ここからネタバレ注意とさせていただきます
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*ここからネタバレ注意とさせていただきます
考察:ハルナと観音崎の3度のセックスに秘められた意味とは?
本作の主人公ハルナとその元カレ観音崎について劇中で少なくとも3度のセックスが描かれています。
1度目はハルナにとって初めての経験でした。
去年の夏に観音崎君とHした。
「好きだから」というよりセックスというものをしてみたかったのだと思う。
その感想といえば
- 想像していたのよりたいしたことない
- 想像してたのよりへんなことだ
- 相手に対して特殊な感情をもちやすい
- 生殖を目的としないセックスというものはいろいろとむじゅんとナゾがある。
などなど
(「リバーズエッジ」29ページ:岡崎京子より引用)
これはハルナにとって初めての経験だったわけですが、この時を境に彼女の心は観音崎から離れていくことになるんですね。
彼女は「セックス」というものに閉塞感のある日常を打破してくれる何かを期待したのだと思います。
ただ観音崎との行為の中に期待したようなものは存在しませんでした。
結局想像してたのよりたいしたことがなかったわけです。さらに言うなれば、生殖を目的としない「死んだ」セックスに一抹の矛盾を感じたことにも触れられています。
そして、その後1度目から2か月の間を挟んで、2人は再び身体を重ねます。
なんとなく観音崎君とHしてしまった。
観音崎君とセックスしたのは「好き」だとか「嫌い」だとか「愛」とか「恋」じゃなく
「感謝」とか「ごめんなさい」とかそういうきもちからだと思う
でもそのことをあたしが「ことば」できちんと表現できれば
セックスはしなくてすんだのだろうか?
でもそういったこととあたしの得たあの体の体温が一緒になる感じ
あの性的な快楽とはどう関係があるのだろう?
(「リバーズエッジ」124ページ:岡崎京子より引用)
この記述に関連させて述べたいのが、ハルナが死体を初めて見た時に感じた「実感の無さ」です。
彼女ははじめて「死」を目撃した時に、ふわふわとした実感の無い感触を味わいました。
この2度目の行為は、まさにセックスから「生」や快楽が切り離されて、もはやコミュニケーションツールの1つになっている様が見て取れます。
快楽や高揚感は確かにあるものの実感の無い行為。それが死体を見た時の彼女の心情にリンクし、セックスに「死」の臭いを付着させています。
そして終盤も終盤に河原で3度目のセックスをしました。
あたしと観音崎君はそこで何回もセックスをした。
あそこが痛くなるぐらいした ヒリヒリするぐらいした
観音崎君は不安と怒りと精液を一緒くたに
全部あそこにぶち込むしかなかったんだと思う
で、あたしはあそこで受け止めるしかできなかった
(「リバーズエッジ」212ページ:岡崎京子より引用)
このシーンで重要なのは、2人が身体を重ねたのが「死」の臭い漂う河原(リバーズエッジ)だったという点です。
「生」の象徴とも言える性行為を、本作における「死」の象徴たる河原(リバーズエッジ)で行っているというだけで印象的なシーンなのは間違いありません。
このシーンを見たこずえは「あの人は何でも関係ないんだもん。」「だからわたしたちにも平気だったんだ。」と述べています。
つまりハルナは、死体のような存在だったんですよね。河原に転がる死体を愛でるかのように、山田とこずえはハルナにも惹かれたのです。何事にも関係を持たず、実感無く生きる彼女には「生」の臭いがないんです。
だからこそ山田やこずえが死体に様々な思いをぶつけたように、観音崎もハルナという死体に自分の不安や怒りをぶつけるのです。そしてハルナは動くこともできません。
原作のラストシーンに込められた意味とは?
(C)2018映画「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
そして「リバーズエッジ」という物語は終わりへと向かいます。
実感の無いままに生きてきた、まさに河原に転がる死体と同じような存在だったハルナ。
彼女は本作のラストでようやく「生」を手に入れます。冒頭の場面と同じように夜の川沿いの道を山田と2人で散歩します。冒頭では実感と現実感に欠けた夜の散歩。
しかし、山田の一言がトリガーになって物語を一気に動かします。
「死んでしまった田島さんはすごく好きだよ。・・・(中略)ぼくは生きている若草さんのことが好きだよ。」
田島さんが山田にとって不快な存在だったのは、「生」の臭いが強すぎる人間だったからなんだと個人的には思うんです。
だからこそ彼は死んだ彼女の方が好きなのでしょう。一方でハルナは生きていても「死」の臭いを漂わせています。だからこそ山田は生きているハルナも好きです。
つまりこのセリフというのは、ハルナが実感の無く死んだように生きてきたことを悟らされた瞬間でもあったんですよね。河原に転がる死体のように無感覚な人間だったことを突きつけられたわけです。
そうして彼女は初めて「死」というものを知覚するんです。こずえに死んだ子猫を見せられたことに対する苦しみが今になってこみ上げてきました。そして死んだように生きることの「苦しみ」を知ったのです。
「死」を知って初めて人は「生」きることができるなんて言いますが、このシーンはまさにその言葉を体現しています。
ラストシーンでこずえがハルナのものだったライターの火を点火させます。これはまさにハルナが「死」の苦しみを知って、ようやく「生」を宿したことを仄めかしているのでしょう。
「リバーズエッジ」という作品はまさに1人の少女が「生」を獲得する物語なのです。
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おわりに
今回は「リバーズエッジ」について語ってみました。
映画版についても、もちろん映画館で鑑賞する予定です。
鑑賞した際には映画版の感想や解説も追記していこうと思います。
今を生きる若い人たちに刺さる内容になっていると思いますので、映画版そして原作、ぜひぜひチェックしてみてください。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。