みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画「聖なる鹿殺し」についてお話していこうと思います。
本編は非常に謎が多く、鑑賞した方も疑問に感じられた点が多くあったのではないでしょうか?
本記事は作品の詳しい考察記事になりますので、その都合上ネタバレを含みます。その点をご了承の上読み進めていただきますようよろしくお願いいたします。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
あらすじ・概要
「ロブスター」「籠の中の乙女」のギリシャの鬼才ヨルゴス・ランティモス監督が、幸せな家庭が1人の少年を迎え入れたことで崩壊していく様子を描き、第70回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したサスペンススリラー。
郊外の豪邸で暮らす心臓外科医スティーブンは、美しい妻や可愛い子どもたちに囲まれ順風満帆な人生を歩んでいるように見えた。しかし謎の少年マーティンを自宅に招き入れたことをきっかけに、子どもたちが突然歩けなくなったり目から血を流したりと、奇妙な出来事が続発する。
やがてスティーブンは、容赦ない選択を迫られ……。
ある理由から少年に追い詰められていく主人公スティーブンを「ロブスター」でもランティモス監督と組んだコリン・ファレル、スティーブンの妻を「めぐりあう時間たち」のニコール・キッドマン、謎の少年マーティンを「ダンケルク」のバリー・コーガンがそれぞれ演じる。
(映画com.より引用)
予告編
解説:「聖なる鹿殺し」というタイトルの意味は?
(C)2017 EP Sacred Deer Limited, Channel Four Television Corporation, New Sparta Films Limited 映画「聖なる鹿殺し」予告編より引用
今回は映画『聖なる鹿殺し』を扱うわけですが、気になるのがこの作品のタイトルの意味ですよね。
実は本作の監督であるヨルゴス・ランティモスはギリシャの出身なんですよ。だからこそ本作の根底にはあるギリシャ悲劇が関係しているんです。
それがエウリピデスの悲劇『アウリスのイピゲネイア』なんですよ。
このトロイア戦争の時代にアガメムノンという英雄がいました。
彼は自分の弓の腕をひけらかそうとしてあろうことか女神アルテミスの聖なる鹿を図らずも射殺してしまいます。さらには、その行為でもって自分の弓の腕前は女神にも劣らないなどと侮辱的な言動を取ってしまうのです。
そしてそれが原因でトロイア戦争に向かおうとしていたギリシャ軍は思わぬ事態に巻き込まれることろなります。海が完全に無風状態、つまり凪いでいて帆船が出港できない状態になるんですね。
そうして、その状態を解決するためには、アガメムノンの娘であるイピゲネイアを生贄に捧げて、女神アルテミスの怒りを鎮めるしかないという展開になっていきます。
アガメムノンは自分の娘を生贄になんてできないと最初は拒むんだけど、結局は国のためだからと娘を生贄に差し出すことを決断するのです。
そうして国から呼び出されたイピゲネイアは悲しみに暮れるんですど、結局は父親と国のためだからとその決断を受け入れるのでした。
そうして祭壇に登った彼女は首を落とされて、息絶えてしまいます。
ただこれを知ったところで、映画『聖なる鹿殺し』の面白さってあんまり分からないんですよね。さらに言うなれば、それを分かった上で見ても、本作の謎は1つたりとも解決しないのです(笑)
それでも良かったら、ギリシャ悲劇『アウリスのイピゲネイア』について調べてみてください。調べるともう少し背景情報も出てくると思いますので。
以降のパートは私が個人的に考えてみた映画『聖なる鹿殺し』の解釈を存分に書いていこうと思いますので、良かったら最後までお付き合いください。
考察:本作が描いたのは、支配権争奪戦ではないだろうか?
映画「聖なる鹿殺し」が何を描こうとしたのか?を考えていくと非常に難しいのですが、私個人としてはこの映画は支配権を巡る争いであると仮定してみたいと思います。
実はそう仮定して紐解いていくとこの映画は非常に面白い要素やシーンに溢れています。今回はその体で私の論を展開してみようと思います。
まず本作の主人公であるスティーブン(コリン・ファレル)ですね。彼は心臓外科医です。
そして彼の家族の中での立ち位置というのは、いわば絶対的な支配者なんですね。旧来の家族形態的で、父親の権力が非常に強い家庭を形成しています。
(C)2017 EP Sacred Deer Limited, Channel Four Television Corporation, New Sparta Films Limited 映画「聖なる鹿殺し」予告編より引用
彼が職業としているのは心臓外科で、もちろん外科手術も執刀します。オペの最中の執刀医というのはある種の手術室の支配者なんですよね。
つまり患者を生かすも殺すも彼次第という空間が形成されるわけです。そんな時に、彼は飲酒をして手術に臨み医療ミスを犯してしまうんですね。
彼は自分の罪悪感を埋めるために息子のマーティン(バリー・コーガン)のために献身性を見せます。マーティンをも自分の支配下においてしまうことで、彼の父親代わりになろうとしたわけです。
スティーブンがマーティンに時計を買ってあげたり、心臓外科医になるためのサポートをしてあげたり、ご飯をご馳走してあげたりしようとするのは、支配者から被支配者への施しなんですよ。
一方のマーティンはと言うと、スティーブンからの施しを受けながらも虎視眈々と支配構造の転覆を狙っています。
自分の父を家族を医者という立場で支配し、そして父の命を奪ったスティーブンを何とかして自分の支配下においてやろうと試みます。
(C)2017 EP Sacred Deer Limited, Channel Four Television Corporation, New Sparta Films Limited 映画「聖なる鹿殺し」予告編より引用
それが印象的なのが、マーティンが自分の家にスティーブンを誘う場面ですよね。
この場面でマーティンの母親はスティーブンに不倫関係を迫ります。
これは彼女が望んだことでもありましたが、それを誘発したのは他でもないマーティンですよね。
つまり彼はスティーブンを自分の家族という枠組みに取り込んでしまおうとしたわけです。スティーブンを取り込んでしまえば、彼の家族を生かすも壊すもマーティン次第という状況になりますからね。
しかしスティーブンはそれに応じることはありませんでした。よって彼はスティーブンをそしてその家族を直接支配下に置いてやろうと乗り出すわけです。そしてスティーブンの家族に悲劇が襲い掛かり始めるんですね。
(C)2017 EP Sacred Deer Limited, Channel Four Television Corporation, New Sparta Films Limited 映画「聖なる鹿殺し」予告編より引用
これから起こることとなる症状も実は支配ー被支配の関係を強調しております。
まず最初の症状である足が動かなくなり立つことが困難になるというものですが、これって言わば「頭が高い」ってやつですよね。
支配されるものは頭を低くしなければならないという意味も込めて、足を無力化し、立てないようにしているのだと思います。
そして食べ物が食べられなくなるという2つ目の症状は、いつの時代にも存在した支配者が肥え、被支配者は飢えるという構図を表しているように思います。
まずはボブが、そしてキムがこの症状のために病床に伏すこととなります。
この間にキムは少しずつですが、スティーブンの支配権から抜け出し始めているんですよね。
彼のために歌い、彼に身体を差し出そうとし、心は彼に奪われていきます。つまりキムという少女は徐々にマーティンの支配下に置かれていっているわけです。一方でボブはマーティンに心を開くことはありませんでした。
妻のアナはどうかと言いますと、この家族の危機に乗じて自分がスティーブンに代わって家族の支配者になろうとするんですよね。彼の同僚に擦り寄っては、彼の秘密を聞きだし自分が優位に立とうとします。
さらには、娘のスマートフォンを取り上げたり、家事に関する命令を出したりと、すっかり家族の支配者として振る舞い始めるんですよね。
ただ、そんな危機に際してもスティーブンは自分が支配者であろうとし続けます。
そしてマーティンを拉致し、地下室に監禁することで自分が支配者であることを誇示しようとするわけです。しかし、彼は結局マーティンを支配下に置くことはできません。
それどころかスティーブンの家族は次々にマーティンに懐柔していくんです。キムはマーティンにガールフレンドになってあげるし、ここから逃がしてあげるから私の足を直してと懇願しますよね。アナは彼に治療を施しては、頭を垂れ、彼の足にキスをします。
(C)2017 EP Sacred Deer Limited, Channel Four Television Corporation, New Sparta Films Limited 映画「聖なる鹿殺し」予告編より引用
このシーンは注目しなければなりません。なぜならボブだけは椅子に座ったままなんですよ。その横でキムとアナがマーティンに頭を垂れて、赦しを乞うているにも関わらずですよ。そんなボブに対してマーティンは、「父親がいないとお前が支配者のようだな。」という言葉を投げかけます。こんな状況に有っても自分にひれ伏さないボブに対して嫌悪の目を向けています。
そしてマーティンにいくら乞うても赦しをもらえないと分かった家族はマーティンに言われるがままに家族を1人殺めることしかできない仮初めの支配者に堕ちたスティーブンに自らの保身を訴えかけるわけです。
自分の夢は心臓外科医になることなんだと涙ながらに訴えかけるボブ。自分の命はいいから、それを引き換えにして家族を救って・・・と他者への思いやりを見せるキム。自らの身体と黒いドレスで夫を誘惑するアナ。
この時点でもはや彼らの支配者はスティーブンではなく、マーティンになっています。彼らはマーティンの命令に従わざるを得ないのです。そうして家族の誰かが絶命する究極のロシアンルーレットが開幕します。
命を落としたのはボブでした。私はボブが死ぬことは偶然決まったのではなくて、マーティンによって宿命づけられていたのではないかと思います。キムとアナが彼に赦しを乞うた一方で、彼だけはマーティンに靡きませんでした。そのため自分の支配体制を明確にするうえで邪魔な存在となったボブの命を奪ったのではないかと考えました。
ラストシーンで飲食店でスティーブンの家族とマーティンが邂逅しますよね。
このシーンで印象的なのは、冒頭の彼らとでは関係性が大きく異なっているということです。支配する側だったスティーブン。彼はあの飲食店でマーティンに食べ物の施しを与えようとしますよね。一方のラストシーンではマーティンこそがあの家族の支配者足る存在になっているわけです。
冒頭のシーンではチキンとポテトが盛られていたプレートのチキンを先に食べたマーティン。一方でラストシーンで同じプレートのポテトのみを食べたキム。かつてじゃがいもが庶民の食卓にも並ぶ食品であった一方で、鶏肉が貴族の食卓にしか並ばないような食材だった時代を鑑みると、ここでも支配構造が透けて見えるような気がします。
この映画を一言で表現するなれば「革命」なんですよね。支配されたものが声をあげ、支配するものを転覆させるわけです。
かつて鹿狩りは貴族の嗜みとされ、鹿は「王や貴族の狩りの対象」でした。自分たちは豊かに何不自由なく暮らし、人を医療ミスで殺めながら罪を償うことすらなかった「聖なる鹿」たる支配者スティーブンを引きずり降ろすことを「殺し」と定義し、マーティンはそれをギリシャ悲劇になぞらえて実行したのでしょう。
そしてこの連鎖は止まりません。マーティンに向けられたスティーブン一家の目つきはまさしく復讐心に燃えています。次は被支配者となった彼らが支配者たるマーティンに「革命」を挑むことになるのかもしれません。
考察:21世紀の世界に問う、正義のフェアトレードとは?
(C)2017 EP Sacred Deer Limited, Channel Four Television Corporation, New Sparta Films Limited 映画「聖なる鹿殺し」予告編より引用
本作を読み解くに当たってハンムラビ法典にも登場する「目には目を、歯には歯を」の考え方は非常に重要です。ある苦しみを与えたものには、それと同等の苦しみが与えられなければならないというものです。
現代社会において「正義」を保証するものは何かというと、それはルールです。つまり法律や刑法のことですね。これらが不完全な人間に代わって「正義」を暫定的にではありますが保証してくれているわけです。
しかしそれは本当に正しいのでしょうか?例えば凶悪犯が4人家族の内1人の命を奪ったとします。しかし現代の法律や刑法ではなかなか1人の殺害で、死刑に持って行くことは難しいです。さらには死刑が存在しない国だってたくさんあります。
戦争や虐殺だってそうですよね。戦争では多くの命が失われます。しかしその奪われた命に対する保証はそれと同等の何かで補われるだけで、別の命でもって補填されるなんてことは万が一にもありません。虐殺であっても奪われた数と同じだけの命が生贄に捧げられるなんてことはまず現代ではありえないわけです。
ただ正義というのは、本来「目には目を、歯には歯を」というフェアなトレードでのみ妥当性を保ちうるものでは無かったでしょうか?それと同等の何かで償うというのは、非常にナンセンスだとは思いませんか?
これがある種現代のテロ行為に繋がっている節がありますよね。先進国によって虐げられた国々にテロリストが生まれ、そしてテロ行為を実行に移し、自分たちの国から奪われた命と同等の命を奪ってやろうと試みるわけです。
それに対して先進国が反撃を加えるとまたそれに対する復讐が跳ね返ってくるわけです。この負の無限ループに現代国際社会は陥っています。
本作「聖なる鹿殺し」に登場するマーティンは常にフェアなトレードにこだわるんですよね。例えば、飲食店での飲食代をスティーブンに払ってもらおうとはしません。さらにはスティーブンから時計をプレゼントされると、彼の家族にプレゼントをすることで借りを返そうとします。アナからレモネードを出されると、逆に自分の家に招待してレモネードを出しました。本作の主軸となる家族を1人殺せという申し出も自分の父が殺された見返りです。また監禁された際に、スティーブンの腕に噛みついた際には、その後に自分の腕にも同様の噛み傷をつけました。
このようにマーティンというキャラクターは徹底的にスティーブンから施しを受けようとしませんし、受けた際にはそれをきっちりと返そうとします。
これは彼が自分の父親とスティーブンの家族の内の誰か1人という命と命のフェアなトレードを行おうとしているからに他なりません。
余計な貸し借りが生まれないように留意し、あくまでも命に対して命という「目には目を、歯には歯を」方式の正義の追及を目指しているわけです。
一方のスティーブンは医療ミスで父親の命を奪ってしまった罪悪感からかマーティンに対して様々な施しをすることで、その罪を償おうとしているんですよね。
食事をご馳走しようとするのも、心臓外科医の手ほどきをするのも、家に招待するのも、時計を買い与えるのも、マーティンが時計のバンドを川に変えても怒らないのも、全て彼が罪悪感を埋めるためにこれらの行動をしているからに他なりません。
しかし、マーティンは決してそれを良しとせず、最終的には命の等価交換でもって正義のフェアトレードを完了させました。劇中で彼が「正義に近づいている。」というセリフを残していましたが、この映画での一連の行動はマーティンにとっては正義そのものなんですよ。「命を奪った奴から命を奪ってやろう。」という考え方は現代の社会では間違っていると言えるかもしれませんが、本質的に間違っているかと言うとそうとは言い切れないんですね。確かに現代社会的な「正義」の定義には当てはまりませんが、世が世ならこれは正義なんですよ。
21世紀の世界では人1人の命が再び軽視されている風潮があります。連日のように人が殺されたニュースが飛び込み、テロ事件で人が亡くなったニュースが流れ、世界のどこかで起こっている紛争の映像が報道されます。こうした「死」の日常化が人々から「命」の重さを忘れさせています。
映画「聖なる鹿殺し」は、そんな21世紀の我々に、人の命は人の命でしか償えない大切なものなんだということを改めて訴えかけているようにも思えます。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『聖なる鹿殺し』についてお話してきました。
最初にも少しお話したように本作の根底にはギリシャ悲劇があります。これについてはもう少し調べてみると面白いかもしれません。
撮影や音楽の演出なんかも非常に秀逸で、映画を見ている間中ずっと不穏な空気感の中に佇んでいるような感触で、一瞬たりとも気を抜けない構成となっていました。
(C)2017 EP Sacred Deer Limited, Channel Four Television Corporation, New Sparta Films Limited 映画「聖なる鹿殺し」予告編より引用
良かったらヨルゴス・ランティモス監督の「ロブスター」はオススメですので、チェックしてみてください。
演技の面では、コリン・ファレルが傑出していましたね。全キャラクターが比較的感情を抑えた演技を展開し、自身も穏やかな人間性のキャラクターを演じつつ、徐々に怒りや悲しみの表情を表出させていく演技にはハッとさせられました。
作品総評としては「ロブスター」よりもずっと分かりやすい構成で見やすかったですし、理解しやすい内容でした。また演出や撮影、音楽もしっかりとマッチしていて映画の空気感を上手く作り出していたように思います。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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