目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画「ちはやふる 結び」についてお話していこうと思います。
今回は作品に詳しく踏み込んだ感想・解説記事になりますのでネタバレを含みます。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『ちはやふる 結び』
あらすじ・概要
末次由紀の大ヒットコミックを広瀬すず主演で実写映画化した「ちはやふる 上の句」「ちはやふる 下の句」の続編。瑞沢高校競技かるた部の1年生・綾瀬千早がクイーン・若宮詩暢と壮絶な戦いを繰り広げた全国大会から2年が経った。
3年生になった千早たちは個性派揃いの新入生たちに振り回されながらも、高校生活最後の全国大会に向けて動き出す。一方、藤岡東高校に通う新は全国大会で千早たちと戦うため、かるた部創設に奔走していた。
そんな中、瑞沢かるた部で思いがけないトラブルが起こる。
広瀬すず、野村周平、新田真剣佑ら前作のキャストやスタッフが再結集した。
新たなキャストとして、瑞沢かるた部の新入生・花野菫役をNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の優希美青、筑波秋博役を「ミックス。」の佐野勇人、映画オリジナルキャラクターとなる千早のライバル・我妻伊織役を「3月のライオン」の清原果耶、史上最強の名人・周防久志役を「斉木楠雄のΨ難」の賀来賢人がそれぞれ演じる。
(映画com.より引用)
予告編
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『ちはやふる 結び』感想・解説・考察(ネタバレあり)
3部作として完璧すぎる構成
私が個人的に最も完璧だと感じている3部作映画はやはり「スターウォーズ」旧3部作です。これだけは揺らぎません。
何者にもなれず、タトゥイーンの星でヨーマンとして生涯を終えることが既定路線だった青年。
そんな青年ルークが突然フォースの使い手として抜擢され、壮大な冒険へと身を投じていきます。そして戦いの中で成長し、3部作の最後でダークフォースを倒し、帰還します。
誰でもない青年が英雄となって帰って来る。その見事な円環構造に身震いが止まりません。
ただ映画「ちはやふる」3部作はそれに匹敵するレベルの傑作と言っても過言ではありません。
今作「ちはやふる 結び」だけでももちろん素晴らしい作品なのですが、それ以上にこの3部作構成は素晴らしいと思います。
まず本作の主軸には千早、太一そして新の物語が据えられていることは言うまでもないでしょう。
幼少期に3人で結成したチームかるたが彼らの原点になっています。純粋にかるたを楽しんでいた過去。そこがこの物語の始まりの1ページです。
それに基づいて「ちはやふる 上の句・下の句」では、彼らの現在を描きました。
かるたが大好きで、高校生になってもチームかるたに熱心な千早。かるたが好きというよりも千早のためにかるた部を作り、そしてかるたに取り組む太一。好きなかるたを好きでいられなくなった新。過去から現在へ。3人の物語が現在という時間軸で再び交錯し、動き始めました。
それを受けて本作「ちはやふる 結び」では彼らの過去から未来へ、現在から未来への物語が描かれました。
かるたクイーンを目指す千早、しかしその先には何があるのか。
かるたを続けるか、勉強に専念するか、人生の選択を迫られる太一。千早への思いを自覚し、
かるたへの情熱を取り戻した新。
3人の未来へ繋がる物語がまさに描かれました。
チームちはやふる。3人から始まった物語。
「ちはやふる 結び」のラストシーンは千早、太一、新のシーンでした。太一へのリベンジを誓う新。これからも千早の傍にと静かに誓う太一。かるたで世界一になることを決意する千早。
3人から始まった物語の円環がここで静かに結ばれました。しかし、それで終わりではありません。ここからまた3人の新たな物語が始まりました。始まりの終わり。終わりの始まり。
さらに千早と太一の物語として見るとこの3部作の完成度はグッと高まります。
「ちはやふる 上の句」の最初のセリフは「今の私には『ちは』しか見えない。」でした。
これは「ちはやふる」の歌が千早の得意札だからでした。一方の「ちはやふる 結び」では、やたらとこの札が取られるシーンが強調されているのに気がつきましたか。
冒頭の若宮に札を手渡すシーン。
全国大会の決勝で伊織に「ちは」の札を取られるシーン。
これは「ちは」しか見えなかった少女千早の成長に繋がる描写なんです。
かるたのことになると、太一や新のことになると視界が狭くなり、周りが見えなくなっていた千早。そんな彼女が3部作を通してチームを思いやり、支える存在へと成長しました。そして彼女は教員の道を志します。
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
彼女は若宮に「ちは」の歌を差し出してこう言われました。「どちら様ですか。」それは自分への挑戦権を勝ち取れず、アシスタントとして自分の得意札を差し出す彼女への皮肉でした。
しかし、千早はそれを自分の強みにしたのです。全部の札が得意札だと豪語する若宮。
その一方で千早はチームを周りの人を思いやり、周りの人に支えられることを自分の強みにしました。千早の最大の強さは滅私の精神なのかもしれません。それが「ちは」しか、自分しか見えなかった彼女の成長でした。
そして太一の物語は一層エモーショナルです。千早のためにかるたを続けましたが、受験勉強という壁が立ちはだかり、かるたから逃げ出してしまいます。常に誰かのためにかるたを続けてきた彼の挫折。そこから立ち直り、ようやく自分のためのかるたを見出す太一。
誰かのためにしかかるたを出来なかった太一。「ちはやふる 結び」の終盤の彼の表情にそんな迷いは見て取れません。千早のためにするのではなく、千早を思う自分のためにかるたをする。彼の成長にただただ涙が止まりませんでした。
3人それぞれの物語が、チームちはやふるの物語が結ばれ、未来へと開かれた最高の完結編「ちはやふる 結び」に最大限の賛辞を贈りたいと思います。
青春映画におけるオトナの存在意義について
青春映画の主役と聞かれるとやはり高校生といった若い世代の、学生の映画を思い描くのが普通でしょう。それは間違いありません。
しかし、青春映画において意外にも重要なのがオトナの存在であることを忘れてはいけません。青春映画に登場するオトナの人数は基本的に少ないです、もっと言うなればオトナが登場しない青春映画も存在します。
ただその描かれ方には必ず意図があり、存在意義があります。ですので、一見脇役のオトナたちに注目するという視点は非常に重要なのです。
例えば私のオールタイムベスト映画の「台風クラブ」において、印象的に登場するオトナは1人だけです。
登場キャラクターたちの担任教師という役どころですが、このオトナは徹底的にオトナの汚さを見せつけます。
徹底的にだらしなく、ちゃらんぽらんで、汚く、醜いオトナを青春真っ盛りの学生たちに印象づけます。この錆びて輝きを失ったオトナの肖像が、学生たちの青春を一層眩いものにするのです。
私が近年の青春映画でお気に入りの「私たちのハァハァ」でもオトナが数人登場して、重要な役割を果たしていました。
オトナは子供たちに社会や現実を突きつける存在として登場します。青春というある種の夢遊病に冒された女子高生たちにドロドロとして、残酷で、厳しい現実を突きつけ、彼らに青春の終わりを告げる存在こそがオトナだったのです。
では「ちはやふる 結び」においてオトナが果たす役割とは何だったのでしょうか?
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
ここで考えて欲しいのは、「ちはやふる 上の句・下の句」に比べて格段に「ちはやふる 結び」はオトナの登場人数が圧倒的に増えているという点です。
前作までで印象的だったのは、実質的に原田先生だけでした。「(青春全部)かけてから言いなさい」という金言を太一に残したメンターは映画「ちはやふる」において唯一重要なオトナのキャラクターでした。
一方の「ちはやふる 結び」において印象的なオトナは原田先生だけではないんです。顧問の宮内先生の存在感が高まり、新キャラクターとして登場した周防は太一の良きメンターとなりました。
さらに前作まで青春の最中にいた須藤も今作ではオトナとして北央学園を支えました。他にもかるた部を指導する数々の顧問の先生たちがフィーチャーされるシーンがありました。
青春映画としての純度が限りなく高かった前作までの2作品に比べて、「ちはやふる 結び」は青春映画としては異例なほどにオトナの存在にフォーカスされているんです。
これは本作が描こうとした未来へのベクトルに深く関わり合っていると思います。これまで青春の輝きを描く映画は腐るほどありました。
「ちはやふる 上の句・下の句」も間違いなくその1つでした。しかし、「ちはやふる 結び」はそこからさらに一歩踏み込んだ映画なのです。
青春はいつか終わる。終わるからこその青春。じゃあ、青春は終わってしまった後にどんな意味を持つんだろうか?青春は終わってしまった後には何が残るんだろうか?
映画「ちはやふる 結び」が青春を終えた者としてオトナを数多く登場させたのは、それを描く上で青春が過去になった者の視点が必要不可欠だったからなのです。彼らは終わった後の青春がどんな意味を持つのかを知っています。
青春は無駄にならない、人生の糧となると説くかるた部の顧問の先生たち。青春懸けた後に何も残らないことなんてないと語る原田先生。青春には二度と取り戻せない光があると回顧する周防。
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
青春の輝きを現在進行形で魅力的に描く映画は数多くあれど、その青春の一瞬の輝きが人生が終わるまで続くものであるという未来形で描く映画は稀有だと思いました。
そしてその青春の未来性を作品に付与したのがオトナたちの存在であることを忘れてはいけません。これほどまでにオトナが印象的な青春映画も他にないでしょう。
後輩のフィルターを通して見る「瑞沢の3年間」
本作においてやはり見逃せないのが、1年生の2人の新キャラクターです。
筑波はチームでのかるたを知らないかるた実力者です。彼のチームを顧みない個人戦的スタイルは打倒若宮に燃え、周りが見えなくなった「ちはやふる 下の句」での千早の姿に近似しています。
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
またかるたよりも恋が優先で、本気で部活なんてやるつもりがなかった少女花野。
そんな彼女も千早やかるたに懸ける先輩の姿に感化されて徐々にかるたにのめり込んでいきます。
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
しかし、これらの新キャラクターの成長というのは実は映画「ちはやふる」シリーズにおいて目新しいものでは無いんです。2人の今作における成長劇は、「ちはやふる 上の句・下の句」で既に描かれた内容なんです。
では彼らが本作に登場した本当の意義は何なのかと言うと、それは既存のキャラクターとりわけ瑞沢かるた部の先輩たちの成長を描くためだったんです。
特に今作では「ちはやふる 上の句・下の句」に比べて登場シーンが少なくなった奏、肉まんくん、机くんの見せ場を後輩を導く先輩という形で魅せているのが素晴らしいと思います。
上の句で自分は数合わせでしかないと嘆いた机くん。彼は率先してデータ収集に取り組み、全国大会の舞台にも関わらず、花野に出番を譲ります。
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
これは上の句で彼が学んだ確かな実感に基づく行動です。チームで戦うことの心強さ、意義。彼はそれを教えられたキャラクターでもありました。
だからこそ最後の大会で彼に出来るのは、その実感を伝えることでした。これは他でもない机くんにしか出来ないことです。
肉まんくんは上の句で机くんに対して配慮の足りない発言をするなど、元々はチーム精神があまり強いキャラクターではありませんでした。
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
しかし、「ちはやふる結び」に登場する彼は人一倍チーム思いです。誰よりも率先してチームメンバーを気にかけ、ムードメーカー的存在として振る舞います。
同様に奏にも成長が見られました。千早に感化され、励まされてかるた部に入部した彼女。そんな彼女が太一に酷いことを言ってしまったと後悔する花岡を励まそうとする姿は前作までの彼女から想像も出来ませんでした。
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
大好きな和歌を大好きでいるだけでなく、大好きな和歌で誰かを励まし、勇気づける存在に彼女は成長したのです。
後輩たちのキャラクターももちろん際立っていたのですが、後輩というフィルターを通して「瑞沢の3年間」を描くという試みはこの上無く秀逸な視点だと思いました。
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動線と構図が孕む雄弁性
本作においてキャラクターの動線や構図が非常に雄弁であったことをまず指摘しておきたいと思います。これが短い時間で多くを語ったこの映画の1つの武器でもありました。
まず、1つ印象的だったシーンは線路の傍らで千早と太一がすれ違うシーンですね。このシーンは映像的に見ると多くを語っているシーンだと思うんです。
電車という乗り物は始発点と終着点が決まっている乗り物なんです。つまり電車は瑞沢高校のかるた部発足を始発点として全国大会優勝へと向かう一方通行であるわけです。
そしてこのシーンにおいて電車は画面の右から左へと通過していきました。日本の映画において画面の右が過去、左が未来を意味することを考えるとこの電車は過去から未来へ向かう電車です。
その電車と同じ方角へと向かうのが千早である一方で、それと逆方向に向かうのが太一です。つまり瑞沢高校かるた部の未来へと一直線に向かう電車に背を向けて去りゆく太一が構図的にも動線的にも印象づけられているわけです。
その他にも電車とキャラクターの動線のリンクには注目です。新がチーム結成を決意した時の電車も画面右から左。新自身も自転車で画面右から左へ。チーム瑞沢が全国大会に向かうために乗った新幹線も画面右から左へ。
この映画は日本映画におけるスクリーン向かって右が過去、左が未来という定理に極めて忠実で、それが作品のテーマにも繋がっているのです。過去から未来への動線が視覚的に表現されています。
さらにこの映画において最も印象的だったのがラストシーンです。
近江神宮の階段から降りてくるのが新で、登っていくのが若宮でした。
太一に敗れ、名人への道のりがまだまだ遠いものであったことを悟った新とさらなる高みへと上がっていく若宮がキャラクターの動線からも印象づけられます。
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
そして高みへと消えていき姿の見えなくなった若宮。その残像を見上げる千早。千早の名前が書かれたタオルだけが残り香のように彼女の下に落ちてきます。
まるで若宮が「あなたの名前は覚えた。上で待ってる。」と言わんばかりの演出と動線でした。
最後にやは3人の物語の結びとしてこのシーンはこの上なく素晴らしかったです。千早と太一、新が同じ高さに立って階段の上にそびえる近江神宮を見上げています。かるた名人、かるたクイーンへの道はまだまだ遠い。
それでもひと時「チームちはやふる」のあの頃に立ち返って、再びスタートを切ろうとする彼らが印象づけられます。
過去から現在への物語だった「ちはやふる」がこの瞬間に未来へと続く物語として昇華していきました。
彼らの無限未来へと・・・。
百人一首と物語のリンク
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
百人一首、その歌は千年前から今に伝わるものです。
未来志向の青春映画たる「ちはやふる 結び」を表現する上でその歌たちを彼女たちの物語にリンクさせていく演出が憎いと思いました。
ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる
後徳大寺左大臣
千早が太一のいなくなった部室で一人涙するシーンで畳の隙間から発見された札に書かれていた和歌です。
これは「ホトトギスが鳴いた方を眺めてみると、ホトトギスの姿は見えず、ただ明け方の月が淡く空に残っているだけだった。」という意味です。
この歌には残された者の寂しさみたいなものが滲み出ていて、まさにこのシーンにおける千早の心情にリンクします。
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
平兼盛
この歌は若宮の得意札でもあるわけですが、今回は太一を象徴するような歌として登場しました。運命戦で彼がセオリーに反してまで自陣に残したのは、この札でした。
秘めたる恋心が徐々に表情や機微に表れてしまったよという切ない思いを歌ったこの歌。
まさに千早への思いを悟られまいと振る舞う彼を象徴する歌のようです。
恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
壬生忠見
この歌は秘めていた恋の噂が立ってしまったよ、という歌なんですね。つまりこれまでずっと秘密にしていた新の千早への思いが表出し、それが波紋を呼んだことを象徴するかのような歌になっています。
運命戦で太一が新に送ったのがこの札でした。
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
小野小町
最後に紹介したいのがこの歌ですね。これは周防が予備校の黒板に綴り、太一を感化させた歌でした。
これは「いろいろなことに思い悩んで知る間に桜の花の色が色褪せってしまったよ・・・。」という取り戻せない時の移ろいの無常さを歌った和歌です。
青春というのは花のようなもので、咲き誇ると美しいが、それも一瞬のこと。その美しい色はどれほど後悔しても後からは手に入れることができないものです。
それを手に入れられなかった周防から太一に贈られるのがこの歌というのは、哀しくもありそしてどんな言葉よりも沁みるものでした。
百人一首と物語のリンクは「ちはやふる 上の句・下の句」でもあった演出ですが、「ちはやふる 結び」においてはそれがさらに物語の方向性とリンクして物語を彩っていたように思います。
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映像と劇伴音楽が演出するイメージと省略
本作は2時間程度の映画でありながら、原作で考えても相当量の内容を詰め込み、新キャラを4人も物語に組み込みました。
それでいて新キャラクター、既存のキャラクターの描写に過不足が無く、脚本も完璧とも言えるほどに洗練されています。
これを可能にしたのが、映像と劇伴音楽によって観客にイメージを与えることによる省略です。
まず劇伴が印象的だったのが「つながれ!つながれ!つながれ!」の劇伴音楽が使われた千早と奏の屋上での会話シーンです。
この劇伴音楽は、「ちはやふる 上の句・下の句」において瑞沢高校かるた部がチームとしての団結を強めていくシーンで使われました。つまりチームとしての瑞沢高校かるた部を象徴する音楽と言っても過言ではないでしょう。
千早と奏が屋上で、自分がかるた部に勧誘されたときのことを話しています。そこにいるのは視覚的には2人だけです。しかし、この劇伴音楽が流れ始めた瞬間にそこにいるはずもない太一と肉まん君と机くんの姿のイメージが我々の中に生まれます。
その瞬間に千早と奏の個人的な思い出話だったこのシーンが一気に「ちはやふる上の句・下の句」を通底してきたチームとしての戦いを振り返るような壮大なシーンへと進化します。
わざわざ描写せずともこの劇伴音楽だけで伝えられるものがあるわけです。こういった省略が本作の不可能とも言えるボリュームの脚本を可能にしています。
また、映像で語るという意味では全国大会決勝の舞台で帰って来た太一に千早が静かに彼の帯を渡すシーンが印象的でした。千早はこのシーンでセリフとして何も語らないんですよ。
まるで彼が帰ってくることが分かっていたかのように、自然に自分が身につけていた「真島」の帯を彼に渡すのです。
一般的な映画ならここで音楽や演出、セリフでエモーショナルなシーンに仕上げて、観客の涙を誘おうとするのでしょうが、小泉監督はそんなことはしないんです。淡々と帯が手渡されるだけ。
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
それでも、あのシーンにはこの上ない説得力があるんです。あのシーンこそが新の言う「瑞沢の3年間」を体現していると思います。それを表現するのに余計な描写は要らないのです。それは彼らには、チーム瑞沢には言葉は要らないからです。
こういった語らない雄弁性が本作に厚みをもたらし、物語をより広くそして重厚なものへと進化させています。
脚本が素晴らしいのはもちろんですが、それを可能にしたのはこういった細かい工夫だったのです。
周防名人はなぜ「かるた好き」を嫌うのか?
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
映画を見ていて皆さんが考えるのは、周防名人のとあるセリフではないでしょうか。
「かるたを好きな人とはやりたくない。だって疲れるでしょ?」
周防名人は驚異の聴覚で「音になる前の音」を聞き取り、名人戦5連覇を達成しました。しかし彼を襲うのは目の病気でした。どんどんと視界は狭くなり、失明が足音を立てて迫ってきていました。
彼は太一になぜかるたなのか?と問われ、こう答えています。
「他になかったから。」
年々衰えていく視力。狭くなっていく視界。優れた聴力。そんな彼が唯一勝てるのがかるただったわけです。彼はその身体的なハンデのために活躍の場を限られています。だからこそ選択肢が無かった、自分が好きなことを選べなかったのです。
だからこそ好きなことを好きになることすら許されない彼にとって、好きなかるたを楽しんでいる人種は眩しく映るのでしょう。自分がどんなに願っても叶えられないものを手に入れた人間と対峙するのは辛いものです。
そんな周防が、自分のためにかるたをやらない、かるたを好きだからかるたをやっているわけではない太一に肩入れしたのも自分と境遇が似ていると感じたからでしょう。
好きだからではなく、ただ自分のために。自分を証明するためだけに。自分の人生に意味を与えるためだけに・・・。
悲しい、だからこそ最強のかるた。
千早や太一はかるたに青春を懸けましたが、周防名人は人生を懸けていたのです。
おわりに:ニコニコ動画と小泉監督
さて長くなった記事も終盤になりました。
本作「ちはやふる 結び」においてニコニコ動画が印象的に登場していたのを覚えていますでしょうか。これは元々は原作の周防名人のエピソードから引用したものだと思います。
ただ小泉監督はこれを映画の(映像の)原初的な意義を持つものとして登場させています。映画とは記録であり、一瞬を永遠にするものでした。
一度しかないその瞬間をフィルムに焼き付けることで何度も体験する事ができる。何度も何度も繰り返して見ることができる。それが映画であり、映像でした。
映像に収めることで瞬間は永遠になる。本作に登場するニコニコ動画の演出は、小泉監督が映画を撮る理由を体現しているようにも感じられました。
「ちはやふる」3部作がこうして完結してしまったわけですが、これ以上は見たくないという思いと共に、もっと彼らに会いたいという思いもあり、相反する感情に悩まされています。
こんな素晴らしい映画を作ってくれた小泉監督を初めとするスタッフの方々に感謝を申し上げるとともに記事を締めくくりたいと思います。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。