みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね、本日よりレンタル・配信がスタートしました映画「マザー!」についてお話していこうと思います。
アメリカ等の国々では、公開されるや否やその内容が物議を醸している問題作で、日本では劇場公開されず、レンタルスルーされてしまいました。
ただ、後程解説しますが、今作はキリスト教に基づいて作られた作品で、その点で日本ではあまり理解されないかな…とは思います。
そんな本作を理解するために、少しでも支えになれればと思い、今回解説・考察記事を書いていきます。
本記事はネタバレを含む作品の内容に深く踏み込んだ内容になります。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『マザー!』
あらすじ・概要
「ブラック・スワン」の鬼才ダーレン・アロノフスキー監督が、「世界にひとつのプレイブック」でアカデミー主演女優賞を受賞した若手実力派のジェニファー・ローレンスを主演に迎えて描くサイコミステリー。
郊外の一軒家に暮らす一組の夫婦のもとに、ある夜、不審な訪問者が現れたことから、夫婦の穏やかな生活は一変。翌日以降も次々と謎の訪問者が現れるが、夫は招かれざる客たちを拒む素振りも見せず、受け入れていく。
そんな夫の行動に妻は不安と恐怖を募らせていき、やがてエスカレートしていく訪問者たちの行動によって事件が相次ぐ。そんな中でも妊娠し、やがて出産して母親になった妻だったが、そんな彼女を想像もしない出来事が待ち受ける。
(映画com.より引用)
予告編
『マザー!』解説・考察(ネタバレあり)
本作の王道解釈たる創世記の視点
本作はキリスト教や旧約聖書の創世記についての要素が根底にあり、それが作品の至るところに散りばめられています。
私個人の解釈は聖書からは少し距離を置いたものなのですが、監督の意図は彼の前作が「ノア 約束の舟」であることから考えても、創世記的な視点でしょうから、その視点も先に紹介しておこうと思います。
エド・ハリスとミシェル・ファイファーは何者なのか?
本作のキャラクターには基本的に名前が存在していないんですね。
エド・ハリスとミシェル・ファイファーはジェニファー・ローレンスとハビエル・バルデムの家にやって来る招かざる客人として登場します。この2人は夫婦同士ということになっています。
この2人はとにかくジェニファー・ローレンスやハビエル・バルデムの言いつけを守らないんですね。
家で入ってはいけないという部屋に平気で出入りしたり、とにかく自分勝手に振舞います。挙句の果てには書斎に入ってはいけないという言いつけを破って、ハビエル・バルデムが大切にしているクリスタルを割ってしまいます。
それまで温厚だったハビエルは一瞬で激昂し、2人に「出ていけ!」と怒鳴りつけました。
このシーンは完全に「創世記」のアダムとイヴが禁断の果実に手を出してしまうパートを引用しています。アダムがエド・ハリス、イヴがミシェル・ファイファーということですね。
彼らが原罪を犯した後に、性行為を行っていたのも印象的でした。
神の言いつけを守らず、彼の厚意を無碍にしたアダムとイヴ。挙句の果てには禁断の果実に手を出して彼らはエデンの園から追放されます。
つまり2人のバルデムの家での振る舞いはまさに人間の原罪というわけです。
ドーナル・グリーソンとブライアン・グリーソンは何者なのか?
(C)2017, 2018 Paramount Pictures. 映画「マザー!」予告編より引用
実の兄弟で演じたエドハリスとミシェル・ファイファーの2人の息子役ですが、これも創世記に引用があるキャラクターとなっています。
父親は遺言書の中で兄ではなく、弟に有利な相続内容を記し、それがためにドーナル・グリーソン演じる兄は激昂しあの家に殴り込みをかけてきます。
そしてあろうことか兄は弟を殺害してしまうんですね。
これは完全にカインとアベルの関係ですよね。神に貢物をしたのに恩寵を受けられたのは弟のアベルだけでした。そのために兄のカインは弟のアベルを酷く憎むようになります。そしてカインは人類最初の殺人者となってしまうのです。
エド・ハリスの親族や友人たちは何者なの?
(C)2017, 2018 Paramount Pictures. 映画「マザー!」予告編より引用
ブライアン・グリーソンが殺害されると、その夜にあの家で彼の喪に服す会合が行われることになるんですね。するとエド・ハリスの家族の親類や友人らが家に集まってきます。
そしてその親族や友人たちも家で好き放題するんですね。家の壁を勝手に塗装したり、入ってはいけない夫婦の寝室に勝手に入ったり、座っていけないと言われた洗面台に座ったりと徹底的に家の「ルール」を守りません。
するとあの洗面台が壁から崩れ落ちて家の中に破裂した水道管から水が溢れだすんですね。
これはカインとアベルの記述の後にある人類の堕落と大洪水の引用だと思います。人類の堕落を見かねた神は大洪水という形で人類を一掃しようとしますからね。
家にやってきた人たちは何者なの?
(C)2017, 2018 Paramount Pictures. 映画「マザー!」予告編より引用
ハビエルの新刊が発売されると続々と人々が彼に家に押し寄せてきました。
あろうことか彼らは家に押し入り、彼の家から物を記念として奪い取っていき、家を破壊し始めます。どんどんと増えた人間は宗教を作り、戦争を始め、横暴の限りを尽くします。
最終的にはジェニファー・ローレンスが付けた火によって彼らは全員一掃されてしまいますね。これも先ほどと同様で創世記の人類の堕落とそれに伴う大洪水からの引用ですね。
このように本作の物語の大筋は基本的に旧約聖書の創世記をなぞらえています。
他にも気になるいくつかの要素
本作には意味深に散りばめられたシーンがいくつも存在しています。今回はその中のいくつかを個人的な解釈ではありますが、お話してみようと思います。
トイレの中にあったのは何?
ジェニファー・ローレンスがミシェル・ファイファーが散らかした家の中を散策しているシーンで、彼女はトイレの水を流します。するとトイレの水が詰まり、水が溢れだしそうになります。
このシーンでトイレの中に詰まっていたものが何だったのか?というポイントは多くの方が疑問に思ったことでしょう。
私も何度か見返してみたのですが、正直明確に判別は付きませんでした。
しかし本作のポスターから推察してもやはりあれは心臓のようなものなんだと思います。
では誰の心臓なのかということですが、私は神たるハビエル・バルデムの心臓なのかな?と思いました。
彼の心臓そのものというよりは、彼の恩寵や厚意のメタファーなのではないかと推察しています。
つまりミシェル・ファイファーらがハビエル・バルデムの厚意を無碍にし、後に原罪を犯して大洪水の引き金を作るという旧約聖書の筋書きをあのワンシーンで想起させようとしているのではないかと考えています。
彼の心臓が流されることで、トイレが詰まり水が溢れ出しそうになるわけですから、神の厚意を無碍にすることが大洪水に繋がるということが視覚的に表現されたシーンだと思いました。
ジェニファー・ローレンスが飲んでいた黄色いポーションは何?
これに関しては作品の中でほとんどヒントが提示されておらず、彼女の精神を安定させるものとして登場しています。
私自身も解釈をするのに限界を感じたので、これに関しては調べてみました。
どうやらシャーロット・パーキンス・ギルマンの「黄色い壁紙」という小説に関連しているのではないかという考察が主流なようでした。
この作品も主人公の女性が精神病に陥っていく様子を描き出しています。その中で主人公は黄色い壁紙に執着心を抱くようになります。
この作品の引用であると考えるならば、あの黄色いポーションはむしろ彼女の精神を乱す方に作用したと考えることもできるのでしょうか。
ハビエル・バルデムの詩は何だったの?
(C)2017, 2018 Paramount Pictures. 映画「マザー!」予告編より引用
ハビエル・バルデムは新刊を書き終えて、それを妻のジェニファー・ローレンスに読ませますよね。
そして彼女の脳内には、崩壊した世界が再生していくイメージが浮かびますよね。これは彼が世界の崩壊と再生を司る神的存在であることを示唆するものでした。
さらにそれを読み終えた彼女は彼にこう告げますよね。「あなたを失うの?」と。
私の推測では、あの詩というのは新約聖書に近い内容だったのではないかと推察しています。
つまり原罪を背負ってイエスが命を落とすという内容です。ハビエル・バルデムが堕落した人類の罪を背負って命をささげるという内容でも綴られていたのでしょうか。
物語がそれまで旧約聖書の創世記的だったのに対し、そこから新約聖書のモチーフも登場するようになったことから考えてもこの解釈は辻褄が合うように思いました。
受胎告知とイエスの誕生?
(C)2017, 2018 Paramount Pictures. 映画「マザー!」予告編より引用
ジェニファー・ローレンスがハビエル・バルデムと初めて関係をもった翌朝、彼女は直感的に妊娠したことを悟りますよね。これは新訳聖書のマリアの受胎告知に似ています。
また彼らの子どもが男の子であったことやその赤ちゃんが人々に救世主的に扱われる点はイエスの誕生に酷似しています。
その一方でジェニファー・ローレンスが処女胎懐でないことやイエスがカニバリズムの対象になるなど新約聖書の内容に反する事実もあり、その点が興味深いポイントでもありますね。
ジェニファー・ローレンスと家
(C)2017, 2018 Paramount Pictures. 映画「マザー!」予告編より引用
本作では終盤のハビエル・バルデムのセリフからも分かる通りでジェニファー・ローレンスが家と強くリンクしているということが印象的に描かれていました。
家が人類たちの横暴な振る舞いによって崩壊していく様子が鮮烈だったのですが、ジェニファー・ローレンスは家の壁にふれることで家の「心臓」をイメージすることができ、家が徐々に弱っていく様子を感じ取っていました。
これは現代の地球全体を覆う環境問題に通ずるモチーフだと思いました。
人類たちの自分たちの繁栄しか顧みない行動が地球という「家」を弱らせ、崩壊へ導こうとしています。
宗教とその暴走
(C)2017, 2018 Paramount Pictures. 映画「マザー!」予告編より引用
この「マザー!」という映画は現代も続く宗教とその解釈を巡っての人間の暴走の様を描き出しているのではないかと解釈しています。
現在世界的に問題になっているテロリズムも元はというとイスラム教徒の聖典たるコーランに記されている「ジハード」の解釈の違いから生まれたものであるという見方も存在しています。
またキリスト教も解釈の違いを巡って多くの宗派が存在しています。同じ聖書を聖典としているにも関わらずその主張は異なっているわけです。
さらに宗教を巡って人間は歴史上多くの戦争を引き起こしてきました。
つまり本来の神の意思や聖典というのものが本来意図したものとは異なった形で人間たちに解釈されることによりそれが争いに繋がっていたりするわけです。
本作「マザー!」の中でも人間が偶像や聖像の崇拝に執着する様や、人間が宗教を巡って戦争する様、カニバリズムなど宗教の解釈を巡って巻き起こる人間の愚かさを鮮烈に描き出しています。
そんな人間たちが勝手に解釈し、自分たちの都合の良いように使ってきた宗教を神の意思の下に戻し、リセットするというところに物語を執着させた点において、この作品は監督の強い現代の人間社会への風刺を孕んでいるように思いました。
この作品は「作者の死」を描いているのではないだろうか?
ここまでは宗教的な解釈を主にしてきましたが、ここからは独自路線で宗教からは少し離れた解釈をしていこうと思います。
まず私が注目したのは、本作の主人公が詩人であるというポイントです。つまりハビエル・バルデムは創作物を世に送り出している人物であるということです。
また彼は世に言葉を送り出しているわけですが、彼の詩の内容が人によって多様な解釈を持ちうるということが作品の中でしきりに強調されています。
これらは映画や小説といった創作物が世に送り出されることで、見る人読む人に多様な解釈を持たせるという性質が反映されたものと読み解くことができます。
つまりこれはロラン・バルトが提唱した物語の作者は物語の最高権威ではないとする「作者の死」そのものなんです。
創作物は創作者の手を離れた瞬間にその支配下から離れて、鑑賞する者に解釈を委ねられてしまうわけです。これは創作物のために創作者自身が批判されることがあってはならないという暗黙のルールにも繋がっています。
ただアロノフスキー監督は前作「ノア 約束の舟」で宗教的にも社会的にも大きな波紋を呼びました。キリスト教徒の反応としても支持する声が多い一方で、創世記を破壊しているということで正教会やカトリック教会の司祭たちから批判を浴びることとなりました。
また批評家からも好意的な反応、否定的な反応があり間違った解釈や批評でもって過剰にバッシングを浴びることもありました。
いくら「作者の死」という概念があり、「ノア 約束の舟」に対する批判の声が彼個人を批判するものではないと言えど、彼はそのことに心を痛めていたのではないでしょうか。
そしてそんな作品の次に世に送り出したのがこの「マザー!」という作品です。さらに言うなれば前作に続いてこの作品も旧約聖書の創世記に着想を得ています。
つまりこの作品は「死した作者」の心の叫びなんだと思います。
「家」というのは創作物のメタファーのようにも取れます。創作物には自由にアクセスでき、それを引用し、個人が好きに解釈をすることができます。
ただそれがために創作物本来の意図が歪められ、恣意的に解釈されてしまい、本来意図した方向とは全く違った場所に着地してしまう可能性を秘めているのです。
本作で描かれる「家」の破壊はそんな歪められ、壊されていく創作物の表象だと思います。
さらにジェニファー・ローレンスの心臓に秘められたあのクリスタルというのは創作物が持つ核のようなものですよね。
ハビエル・バルデムは新しい詩の着想をジェニファー・ローレンスとの暮らしの中で獲得しました。つまり彼女は彼にとって創作の中心にいる存在だったわけです。
彼女は「家」たる創作物とともに人間達に蹂躙されます。
ジェニファー・ローレンスが人々に暴力を振るわれ、痛ましい姿になっていくシーンは、作者が創作物の中に残した命ないし核のようなものなんです。
それは作者が創作物の中に作った絶対にここだけは侵されたくない領域であり、ある種の不可侵領域なんですよね。
だからこそ彼は全てが燃えて灰になった後で、彼女の心臓を取り出して大切に飾り、新たな創作の糧にするわけです。
世に送り出してしまった創作物に対して創作者は無力です。
しかし、創作者には意図するところがあって、その中でも絶対にここだけは歪められたくないという不可侵領域を作品の中に設定しているようにも思えます。
アロノフスキー監督は「ノア 約束の舟」かはたまた他の作品でそんな不可侵領域の蹂躙を経験したのかもしれません。
だからこそ「マザー!」という作品は今一度創作物を作者の手に取り戻そうという主張の表れにも見てとれます。創作物に対して作者は声を上げても良い、ロラン・バルトが提唱した「作者の死」という概念に対して真っ向から立ち向かう「作者の生」をこの映画で打ち立ててくれたように思います。
アロノフスキー監督は前作で意図せぬ批判を浴びた「ノア 約束の舟」からクリスタルの心臓を抜き出し、「マザー!」という作品に埋め込むことで新たな世界を構築し、世間に対して作者として声を上げたのではないでしょうか?
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『マザー!』についてお話してきました。
この作品は確かに正当に解釈するならキリスト教や創世記の視点で見るのが監督の意図に近いと思います。ただそれに限らずともいろいろな解釈ができると思います。
その一方で私はこの作品が鑑賞する者の恣意的な解釈に対する警鐘であると捉える恣意的な解釈をブログ記事として書くという矛盾を引き起こしているんです(笑)。
これに関してですが、私はアロノフスキー監督が恣意的な解釈が駄目だと言っているわけではないと思うんです。というよりもそれは必然であり、世の常であり、人間の歴史において当然のものであるとある種の諦念で捉えていると思います。
だからこそ彼は自分の作品の核を継承した新しい作品を作り続けるところに「作者の生」があるのではないかという点を見出したのではないでしょうか?
劇中でハビエル・バルデム演じる詩人は自分の家が荒らされていく様を見ても飄々としているのがその証明です。彼はむしろそれこそが自分が作品を作る上での刺激になるとまで語っています。
「作者の死」という概念は間違っていません。ただ創作者は自分の作品の核だけは殺してはいけないのです。それを失ってしまえば、もう新しい創作を生むことはできません。
このように「マザー!」という作品は創作物の「マザー」の物語と読み解く視点もあるのではないでしょうか?
今回も読んでくださった方ありがとうございました。