みなさんこんにちは。ナガと申します。
ついに!ついに!この日がやって来ました!!
映画「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」の公開日ですよ!!
あのリュックベッソンが贈る最新作!!
期待値が高まらない訳がありません。
今回はそんな映画『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』の素晴らしさを余すところなく語っていきたいと思います。
この映画はリュックベッソンが現代の我々に贈る「多様性を愛せ!」という優しいメッセージなんだと受け取りました。
彼が『フィフスエレメント』で描いた「愛」をさらに壮大にアップグレードし、人類や全ての生命体に通ずるものとして描いて見せたようにも感じますね。
ただ、あの映画には1つ弱点があったんだです。
それは作品が訴えかけようとする主題やメッセージ性に内容が伴っていないこと。
「愛だ愛だ、戦争はダメだ。」なんてことを言っている一方でブルース・ウィルス演じる主人公は人間や異星人を片っ端から撃ちまくってるんです(笑)
それでいて結末では強引に愛の美しさに訴えかけてるんだから、ちょっと都合が良すぎると感じるのも無理はありません。
ただ、今作『ヴァレリアン』はそんな『フィフスエレメント』にあった弱点を敢えて継承して、それをアップデートすることで克服しているのです。
さて、そんな多様性をテーマにしたSFスペクタクルについて、ここからはもう少し掘り下げていきましょう。
なお映画本編の内容に詳しく踏み込んだ記事になりますので、ネタバレになるような要素も含まれます。映画本編をまだご覧になっていない方はご注意ください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ヴァレリアン』
あらすじ・概要
「レオン」「LUCY ルーシー」のリュック・ベッソン監督が、「スター・ウォーズ」にも影響を与えたとされる名作SFコミック「バレリアンとローレリーヌ」を実写映画化。
28世紀の宇宙を舞台に、銀河の平和を守るエージェントの男女が巨大な陰謀に立ち向かう姿を、壮大なスケールかつイマジネーション豊かに描き出す。
西暦2740年。銀河をパトロールする連邦捜査官のバレリアンとローレリーヌは、あらゆる種族が共存する「千の惑星の都市」として銀河にその名を知られるアルファ宇宙ステーションを訪れる。
しかしその深部には宇宙を揺るがす邪悪な陰謀や、歴史から抹殺されようとしていたある秘密が隠されていた。
エージェントとしての腕は確かだが私生活ではいい加減なプレイボーイの主人公ヴァレリアン役を「アメイジング・スパイダーマン2」のデイン・デハーン、才色兼備の相棒ローレリーヌ役を「スーサイド・スクワッド」など女優としても活躍する人気モデルのカーラ・デルビーニュがそれぞれ演じる。
共演にもクライブ・オーウェン、イーサン・ホーク、ルトガー・ハウアー、歌手のリアーナら豪華メンバーが顔をそろえる。
(映画com.より引用)
予告編
『ヴァレリアン』感想・解説・考察(ネタバレあり)
ベッソンの巧みすぎる作品構成
本作の作品構成はすごく独特ですよね。ただこの独特の作品構成ってベッソンの「フィフスエレメント」からのセルフオマージュのようなものなんです。
例えば、映画本編が始まってから12~13分ほど経たないと、物語の主人公が登場しないんです。
これは本編が始まってから17分ほど経過しないと登場しない「フィフスエレメント」のブルースウィルス演じる主人公と同様です。
また、主人公の条件というのも実は2作品で共通しています。
というのも2作品の男性主人公はどちらも「偶然選ばれた」人物なんです。
「フィフスエレメント」のコーベンは偶然空からリール―(ミラジョボビッチ)が自身の運転するタクシーのところに落ちてきましたよね。
一方の「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」の主人公ヴァレリアンも偶然パール人のプリンセス選ばれて、物語に関与することとなるんです。
他にも多くの点で2つの作品には共通点があります。
SF活劇としてのプロットも非常に似ていますし、2人の男女がバディで物語を推し進めていく構成も非常に近いものがあります。
「ビーチ」やら「ハネムーン」という言葉を聞いて、「フィフスエレメント」を想起した方も多いのではないでしょうか(笑)
そして何よりラストシーンですよね。
ラストを物語のメインキャラクターとして活躍した2人のキスシーンで終わらせるという構成は2つの作品で完全に共通しています。
(C)2017 VALERIAN S.A.S. – TF1 FILMS PRODUCTION 映画「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」予告編より引用
これらの例からも分かるように「フィフスエレメント」と「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」は多くの点で共通点を孕んでいます。特に作品の構成はそのまま流用したのか?というくらいに近いです。
ただこれには間違いなく意図があると思います。
先ほど「フィフスエレメント」には致命的な弱点があるというお話をしました。実は「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」はその弱点をそのまま引き継いでいるんですよ。ただこの作品はその弱点を見事に克服してみせたのです。
この物語は実はヴァレリアンとローレリーヌの2人が繰り広げる王道SF活劇の裏でもう1つ重要な物語が進行しています。
それは惑星ミュールで暮らしていたパール人の物語なんです。
つまり本作においてパール人たちはもう一つの主人公ポジションとして機能しているわけです。
だからこそ冒頭で10分近くもかけて彼らの豊かな生活とそれが破壊される悲しみを描いたのだと思います。
「フィフスエレメント」の作品構成をセルフオマージュする形でベッソンは実はこの作品のもう1つの主人公を冒頭に登場させていたのです。
そしてヴァレリアンとローレリーヌの物語が始まると、映画は極めて正統派なSF活劇へと向かっていきます。2人が数々の冒険をこなし、困難を乗り越えながら、次第に仲を深めていきます。これは「フィフスエレメント」とほとんど同じです。
さらにその冒険の過程で、敵対する人間や異星人をバンバン倒していきますよね。多様性や愛をテーマに掲げた作品が果たしてそれで良いのか?ベッソンは過去作と同じ過ちを繰り返すのか?私も途中まではそう思っていました。
ただベッソンは意図的にその弱点を継承させたことに気がつきました。
ヴァレリアンは冒険の中で、自分の任務のため、自分の愛するローレリーヌのために他の人間や異星人を手にかけました。
実はこれって本作でヴィランのポジションにくる司令官と同じことをしているんです。司令官も過去に惑星ミュールを破壊し、多くのパール人の命を奪いました。
つまり本作のSF活劇においては主人公とヴィランが同じ罪を背負っているんですね。
しかし、司令官は自分の罪を無かったことにするために死力を尽くし、過ちに過ちを重ねます。一方のヴァレリアンは自らの、人類の罪を認め、パール人たちの再興のために尽力しました。
映画「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」では「フィフスエレメント」という作品そのものが有していた弱点を主人公ヴァレリアンに追体験させるとともに、物語の終盤で彼自身にそのことに気づかせるという構成の仕方を取っているわけですよ。
パール人が誰も殺すことなく、アルファ宇宙ステーションに侵入したことが主人公の戦い方と対比的に描かれていたのも印象的でした。
ヴァレリアンがコンバーターをパール人たちに手渡した瞬間と言うのは、彼自身の贖罪でありながら、ベッソン自身によって「フィフスエレメント」がアップデートされた瞬間でもありました。
ベッソンはかつて自分が描き切れなかった、「救うべき価値のある愛」というテーマを20年の時を経てようやくカタチにしたのです。
そしてもう1つ本作の構成において注目したいのが、パール人という”ビハインドSF”的存在への着眼ですよね。
一般的にこういったSF映画においては主人公の視点が善であり、それに反発する視点が悪とされる傾向があります。ハリウッドが制作するSF映画はそういった単純な勧善懲悪の構図をベースにしていることがしばしばです。
ですので、司令官が敵の宇宙船にミサイルを命中させて撃墜したシーンなんて言うのは、一般的なSF映画であれば、一番盛り上がるシーンなんですよ。
戦いの果てに敵をようやく倒したわけですから、壮大なBGMと共に、司令官がガッツポーズ、兵士たちが抱き合うシーンが流れても違和感がないシーンです。
(C)2017 VALERIAN S.A.S. – TF1 FILMS PRODUCTION 映画「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」予告編より引用
ただベッソンの視点はそのいわゆるSFの背後に隠れているものにまで及んでいます。
墜落していく宇宙船、もしその惑星に異星人が住んでいたら・・・。これは国家間の戦争に巻き込まれる、一般市民たちという構図にも当てはまります。
人間は自分たちの信じる愛を守るために戦争をしました。
そして戦争に勝利し、自分たちの愛を守り抜きます。
一方で、宇宙船が墜落して滅亡した惑星ミュールのパール人たちにも愛があります。愛し合いながら築いてきた文化と歴史と伝統があります。
ベッソンが描こうとしたのはヴァレリアンとローレリーヌの単純な勧善懲悪のSF活劇だけではありません。
彼が着眼したのは、むしろその背後にあるものなのです。
人間による自分たちの愛を守るための戦いが無関係な第三者の愛を奪っている。そしてそれを正当化してしまう。そのことの恐ろしさをベッソンは我々に伝えようとしています。
冒頭の10分間にわたるパール人たちの美しい故郷での暮らしのダイアローグ。
それが破壊されていく恐ろしいシークエンス。
そして作品の後半で、その様を宇宙で戦う人間の視点から映します。
そうすることで敵軍の宇宙船を撃墜したというSF映画において最高にアガる映像描写が、美しいミュールの星を破壊してしまうという罪深い映像へと変貌します。
この作品構成を見事と言わずにはおけません。
それでいて「パール人たちによる故郷奪還物語」と「ヴァレリアンとローレリーヌのパーソナルな成長譚」がしっかりと描けているわけですから、こんなに素晴らしい映画も無いですよ。
愛を知るための冒険とヴァレリアンの成長譚
(C)2017 VALERIAN S.A.S. – TF1 FILMS PRODUCTION 映画「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」予告編より引用
映画「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」はSF映画としても単純に完成度が高いわけですが、ヴァレリアンのパーソナルな成長譚としても非常に内容が濃いものとなっています。
彼の欠点は責任を持たないこと、熱しやすく冷めやすい彼の恋愛感情にありました。だからこそローレリーヌに求愛しても、彼は良い返事をもらうことができません。映し出された彼の恋愛遍歴はそんな彼の欠点を物語っていました。
しかし彼は冒険の中で何かを背負うことの意味と本当の愛に出会います。
それは何かを背負って戦うということの意味ですよね。誰かの命を背負って戦うということは、ただ戦うこととは意味が違います。
そしてヴァレリアンが交際の申し出ではなくて、結婚の申し出をしていて、物語の結末でそれを受け入れられるという展開がキーになっていますね。
恋というのは、移ろいやすい感情のことです。恋愛というのは基本的に感情でするものですからね。
一方で、結婚というのは責任なんです。
恋愛は感情ですから「良い時に」寄り添っておけばそれでいい」わけです。
ただ結婚となると「良い時」も「悪い時」も添い遂げなければなりません。それが結婚が感情ではなく責任たる所以です。
ヴァレリアンがローレリーヌに結婚の申し出を受け入れられるというのは、彼に何かを背負う覚悟が生まれたことを表していますよね。
ラストシーンで2人は何百年も前に使われていたアメリカのシャトルに乗って宇宙の彼方を飛んでいます。これはどんなに年月が変わっても、愛だけは変わらないというベッソンのからのメッセージでしょうね。
このようにヴァレリアンという1人の人間の成長を描いたという意味でもこの作品は素晴らしかったと思います。
リアーナ演じるバブルについて
(C)2017 VALERIAN S.A.S. – TF1 FILMS PRODUCTION 映画「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」予告編より引用
個人的にすごく気になったのが歌手のリアーナ演じるバブルの描写なんですね。
なぜ気になるのかと言うとこの「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」におけるバブルの描写は極めて示唆的なんですよ。
支配人の奴隷にされていて、音楽に合わせて見世物をさせられているバブル。
そして彼女はあろうことかかつてのマリリンモンローの姿に変身するんです。
なぜ驚きなのかと言うと、マリリンモンローというのはいろいろと疑惑多き女性だからです。彼女は一般的に自殺したとされていますが、その実情は不可解な変死で、今も謎が多いと言われています。
そして密かにささやかれているのが、マリリンモンローは洗脳されていたという説なんです。
彼女自身は空っぽでアイデンティティを持たない人間でしたが、ハリウッドの統治者による洗脳プログラムを経て、世界のセックスシンボルとして君臨したとも言われています。
最後はその洗脳がために気が狂ってしまったためとも、ケネディ一家に近づいたことが祟ったからとも言われる謎の変死を遂げるわけです。
本作「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」のバブルというキャラクターは実にそんなハリウッド統治者による洗脳の存在を示唆するかのような描き方をされているんですよね。
アイデンティティを持たない空っぽの人間に洗脳によって思考を植え付ける。
イーサンホークが演じたジョリーによって見世物として働かされるバブルはまさにその型に当てはまります。
それでいて疑惑の多いマリリンモンローに変身させているわけですからこれまた一層注目してしまいます。
ベッソンはそんなバブルに「解放」と「自由」という救いを提示しています。
それを今を時めくシンガーであるリアーナに演示させているというのは偶然なのでしょうか?必然なのでしょうか?
また、バブルの見世物のシーンと言うのは、プロパガンダとして映画や音楽が用いられることへのベッソン流の批判だと思うんです。
(C)2017 VALERIAN S.A.S. – TF1 FILMS PRODUCTION 映画「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」予告編より引用
客引きのジョリーは見世物によってヴァレリアンの心を奪い、彼の使命を忘れさせようとしましたよね。これっていわばプロパガンダ的な思想誘導なんです。
映画がプロパガンダの道具にされることは珍しくなくて、ヒトラー政権化のドイツでは国民の思想誘導のために作られた映画なんてものも数多く存在していました。
そして水面下で映画や音楽は今でも世界の支配者たちのプロパガンダの道具にされています。
本編中では客引きのジョリーをヴァレリアンが撃ち抜きますが、これはベッソンによるそうした娯楽をプロパガンダの道具にする権益者たちへの批判が込められているのやもしれません。
映画界にはスタンリーキューブリックという「アイズワイドシャット」でこの世界の影の支配者たちの模様を映像化して消されたと言われる、これまた疑惑の死を遂げた大物がいますから、ベッソンもあまりそちらに踏み込みすぎると・・・という懸念もありますね。
最高すぎたオープニングシークエンス
(C)2017 VALERIAN S.A.S. – TF1 FILMS PRODUCTION 映画「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」予告編より引用
本作「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」はデヴィッド・ボウイの「Space Oddity」と共に幕を開けます。
宇宙に行くことそれだけで偉大な一歩だった頃の地球から次第に技術が発展していきます。
宇宙ステーションにアジア系、アフリカ系の人がやってくるようになり、その後異星人たちもやって来るようになります。そんな一連のシーンを繋ぐのがこの曲です。
トム少佐というボウイの曲における想像上の人物が搭乗していて、そのトム少佐がスペースシャトルで宇宙に飛び立ち、次第に地球を遠ざかり遠く離れてしまったことに対する寂しさをも感じさせてくれる曲でもあります。
様々な解釈がある1曲ですが、個人的にはやはり宇宙で重大な事故に直面しながらも、愛する人への愛だけを握りしめ、死を受け入れる孤独な宇宙飛行士の歌に聞こえます。
そんなデヴィッドボウイが1969年に発表した楽曲が、どんなに極限状態に置かれても自分を支えてくれる偉大な愛を歌った曲をベッソンは映画の中で未来まで繋いでいるのです。
ラストシーンがこの楽曲に呼応しているのも印象的ですよね。
宇宙の果てを小さなスペースシャトルで彷徨うヴァレリアンとローレリーヌ。
愛さえあれば・・・。ベッソンは自分が描こうとする「どんなに年月が経過しても変わらない全生命体を貫く愛」をボウイの名曲に託し、その情景を映画に引用したわけです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ヴァレリアン』についてお話してきました。
ベッソンのSFは硬派ではないですし、独特の抜け感がありますから好みは別れると思います。
ただ彼の作品がそれでもきちんと成立し、人気を博しているのは、その根底にしっかりとした基礎があるからなんですよね。
描きたいヴィジョンがしっかりとあって、それをプロットだけでなく、構成や演出、劇伴音楽、キャラクターデザイン・・・あらゆる要素を駆使して表現しようとしているのです。
特に今作「ヴァレリアン:千の惑星の救世主」の作品構成は見事ですし、その上映像作品としてもこの上ない仕上がりとなっています。
私はIMAX3Dで鑑賞したのですが、2018年というもはやあらゆるSF映像パターンが出尽くしたとも言われる時代にこれだけ斬新な映像を連続で見せつけられるとは思ってもみませんでした。
ありがとう!!
今回も読んでくださった方ありがとうございました。