みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画「レディプレイヤー1」 についてお話していこうと思います。
本作にはイースターエッグと呼ばれる他の映画・アニメ・ゲームなどの作品からの引用やオマージュが大量に散りばめられています。
これに関してですが、当ブログでは解説はしません。こういうものは自分が知っていたものが登場して初めて感激を味わえるものですので、ぜひ皆さん自身の目で探して、楽しんでみてください。
ちなみに私が個人的に一番感激したのは「宇宙空母ギャラクティカ」でしたね。
これだけではなく本当にいろいろな国のいろいろな作品から引用やオマージュがなされています。それを探すのももちろん楽しいですし、あまり映画やアニメ、ゲームの知識に自信がないという方も、楽しんでいただける王道のストーリーになっています。
特に上手いと思ったのが、「シャイニング」のオマージュです。
「シャイニング」を見たことがある人は元ネタの展開を知っているからこそニヤニヤできますし、主人公が気づく違和感にも共感することができます。
ただ一方で「シャイニング」を見たことが無い方安心して見られる設計になっているんです。
それは劇中に「シャイニング」をみたことが無いキャラクターが登場するわけです。
このため見ていなくても、見ていても作品のキャラクターに共感しながら見られるというわけですね。
記事の都合上作品のネタバレになるような内容を含みます。作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください
目次
『レディプレイヤー1』
あらすじ・概要
スティーブン・スピルバーグ監督が、アーネスト・クラインによる小説「ゲームウォーズ」を映画化したSFアクション。
貧富の格差が激化し、多くの人々が荒廃した街に暮らす2045年。世界中の人々がアクセスするVRの世界「OASIS(オアシス)」に入り、理想の人生を楽しむことが若者たちの唯一の希望だった。
そんなある日、オアシスの開発によって巨万の富を築いた大富豪のジェームズ・ハリデーが死去し、オアシスの隠された3つの謎を解明した者に、莫大な遺産とオアシスの運営権を明け渡すというメッセージが発信される。
それ以降、世界中の人々が謎解きに躍起になり、17歳の孤独な青年ウェイドもそれに参加していた。そしてある時、謎めいた美女アルテミスと出会ったウェイドは、1つ目の謎を解き明かすことに成功。
一躍オアシスの有名人となるが、ハリデーの遺産を狙う巨大企業IOI社の魔の手が迫り……。
作中のゲーム世界には、アメリカはもとより日本のアニメやゲームに由来するキャラクターやアイテムなどが多数登場する。
(映画com.より引用)
予告編
『レディプレイヤー1』感想
スピルバーグSFが映し出す”未来”
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED 映画『レディプレイヤー1』予告編より引用
スティーブンスピルバーグ監督というとやはりSF作品のイメージがどうしても強いです。ただ彼のSF映画を読み解いていくとその”未来”の描き方に1つの共通点があることが自ずと分かってきます。
それは”未来”というものを妄信的に賛美しない姿勢なんですよね。
彼のSF作品に映し出される”未来”の姿は常に見る者をワクワクさせ、虜にしてくれます。しかしそこには常に問題が付き纏っていて、未来は必ずしも良いものではないのかもしれないと、映画に夢中になる我々を夢の世界から引き戻すんですよ。
例えば映画『ジュラシックパーク』はどうでしょうか?
この映画は子供なら誰しもが一度は考えたことのある「恐竜が我々の現代社会に生きていたら」という妄想を具現化した作品です。私自身も子供の頃にこの作品を見て心躍らされたものです。
しかしこの『ジュラシックパーク』もそんな人間の管理下に置いて恐竜を復活させるという“未来”を賛美的には描いていません。
人間のエゴが復活させた恐竜はやがて人間の手に負えるものでは無くなり、人間たちを危機に陥れます。特に2作目の『ロストワールド』はそのテイストが強いですね。
また「E.T.」もそうですよね。子供の頃なら誰しもが憧れる宇宙人との遭遇を題材にしており、非常にワクワクさせてくれる映画です。
しかし、宇宙人を捉えて実験台にしてやるですとか、解剖してやるといった人間の薄汚れた好奇心がE.T.とエリオットの物語を壊していきます。
スピルバーグ監督が描くSFの未来世紀は常に魅力的で、我々を映画の世界へと引き込んでいきます。
しかし彼の描く未来はユートピアであると同時にディストピアなんです。楽しい!面白い!だけで終わらないところに彼の映画監督の技量が伺えます。
先日公開されたリュックベッソン監督の『ヴァレリアン』はどうでしょうか?
彼は『フィフスエレメント』でもそうでしたが、未来は今よりずっと良いものになるだろうという希望的な観測をしている方だと思うんです。
『ヴァレリアン』のOPでリュックベッソン監督はデヴィッドボウイの「Space Oddity」を採用しています。
徐々に地球を遠ざかっていくトム少佐の悲哀を歌ったようにもとれるこの歌ですが、リュックベッソン監督はこれを非常にポジティブな形で使っています。
人類がどんどんと発展していき、地球上には平和がもたらされ、ついには宇宙人とも関係を結ぶことに成功します。彼が描く”未来”は底抜けに明るく、今よりも優れたものなのです。
一方の『レディプレイヤー1』ですが、この作品ではヴァンへイレンの「jump!」をOP曲に採用しています。
これはまさに「飛びたて!!」という勢いに溢れた楽曲で、ひたすらに明るく、ポジティブです。しかしスピルバーグ監督はこの楽曲と共に荒廃した未来の集合住宅の暮らしを写し出すんですよね。
「未来へ飛びたて!」と音楽ではやし立てながら、その”未来”というのは荒廃しきった理想とは程遠い姿なんです。
ロバート・ゼメキス監督の「バックトゥザフューチャー」も基本的に”未来”というものを肯定的に描いています。本作のメッセージは「未来は自分の力で変えられる」というところにありましたが、描かれている”未来”はあの当時からすると全てが新しく、魅力的でした。
他には”未来”を暗く、ネガティブなイメージで捉えている作品もあります。
リドリースコット監督の『ブレードランナー』、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督が描いた『ブレードランナー2049』の描いた”未来”は極めてディストピアとしての側面が強いです。
レプリカントという画期的な技術が開発された”未来”にも関わらず、地球の都市は暗く、じめじめとしていてとても希望を見出す事ができません。
他にはスタンリーキューブリックの「2001年宇宙の旅」はどうでしょうか?人類が到達したことの無い領域の宇宙が描かれ、人工知能という当時としては革新的すぎるモチーフを取り入れたこの作品は終始暗く、重い雰囲気に支配されています。
そしてそのプロットからもとても人工知能が素晴らしいものだ!なんて賛美することはできません。この作品においてもやはり”未来”はネガティブなイメージをも孕んでいるのです。
“未来”をどう描くか1つとっても映画監督の味が出ていると思います。”未来”は今よりも素晴らしく、希望に満ちたものであると信じて止まない視点もあれば、”未来”は今よりも暗く閉ざされたもので、そこに希望などないのだという視点もあります。
どちらの視点が正しくて、どちらの視点が間違っているという話ではありません。
ただスピルバーグ監督は”未来”は素晴らしいものであると観客に信じ込ませようとしつつ、それでいて”未来”は必ずしも素晴らしいものとは限らないというリアルも見せてくれるんです。
この”未来”世紀のユートピアとディストピアの同居にこそスピルバーグ監督流SFの魅力が隠れているのです。
“オタクみ”が凝縮された私のお気に入りのシーン
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED 映画『レディプレイヤー1』予告編より引用
映画『レディプレイヤー1』で個人的に最もお気に入りなのがこのシーンなんですよ。これ共感していただける人いますかね?
この映像に映っている人たちって主人公ウェイドたちの対抗勢力に当たるIOI社の社員なんです。それでいて彼らはアニメやゲーム、映画、音楽等の知識を持ち合わせた一流の”オタク”たちなんです。つまり彼らはIOI社の”オタク”精鋭部隊というわけです。
ただ彼らはウェイドたちの対抗勢力であるにもかかわらず、ウェイドがOASISのイースターエッグを獲得するために奮闘する姿を応援し、彼がそれに成功すると抱き合って喜ぶんですよね。
なぜ利害の一致しない、敵であるはずのウェイドの成功を彼らが喜んでいるのか?それは彼らが”オタク”だからなんだと思うんです。彼らもOASISに隠されたイースターエッグを探し求めて5年間もの間奮闘してきました。
それはウェイドたちも同じくです。そしてウェイドはその努力の果てにようやくイースターエッグを手にしようとしているのです。
つまりこのシーンでIOI社の社員である彼らが歓喜しているのは利害関係を超越した”オタク”という同胞としての連帯であり、5年間の苦労を共にした同志への純粋な賛美なんですよね。
このワンシーンに集約されたあまりにも濃すぎる”オタクみ”に2度目の鑑賞で思わず号泣してしまいました。
3D版を見たら評価が変わります!!
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED 映画『レディプレイヤー1』予告編より引用
映画『レディプレイヤー1』に関してですが、私は1回目2D字幕版で鑑賞したんですね。
そして本日IMAX3Dで2度目の鑑賞をしてきました。もう1回目と2回目で評価がガラッと変わりました。
特に本作の3D映像はとんでもないです。
何より素晴らしいのが冒頭のOASISへログインするシーンです。
IMAXシアターで映画を鑑賞したことがある方はIMAXカウントダウンってご存知ですよね。
YouTubeにもありますが、これのことです。
このIMAXカウントダウンを見るたびに、これを映画本編の中で見ることができたらなぁと思い続けていたんです。そしたら『レディプレイヤー1』のOASISへのログインシーンでそれが実現しました。
自分が3D眼鏡をかけているという状況も相まって本当に自分自身がOASISの世界の中へと入っていくかのような没入感がありました。
3D版を見ることで本作の真価が発揮されると思いますんで、良かったら2D版を見たという方も3D版の鑑賞を検討してみてください。
本気でおすすめです!!
『レディプレイヤー1』解説と考察(ネタバレあり)
“虚構(フィクション)”は”現実(リアル)”を変えられるか?
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED 映画『レディプレイヤー1』予告編より引用
私は本作『レディプレイヤー1』においてスピルバーグ監督が描こうとした最大の焦点は「”虚構(フィクション)”は”現実(リアル)”を変えられるか?」にあるのではないかと考えました。
今回はいくつか私の論拠を示したうえで最後にこの焦点について結論づけていきたいと思います。
映画「シャイニング」へのオマージュ
本作の2つ目の試練の舞台が映画「シャイニング」のオーバールックホテルになっていたのはもちろんお気づきですよね。
当ブログでも映画『シャイニング』を徹底的に解説した記事がございます。良かったらチェックしてみてください。以下にリンクを掲載します。
映画「シャイニング」が何を描いた作品なのかは非常に解釈が分かれるポイントですし、難解です。ただ私はこの映画はフィクションの世界へと取り込まれていく創作者の狂気を描いた作品だと思っております。
主人公のジャックは小説家志望です。そんな彼はオーバールックホテルで冬期の管理人として働くこととなります。
そこでの閉塞した生活が彼をフィクション世界の狂気へと誘い、最終的には彼を現実世界から切り離し、フィクション世界の住人にしてしまいます。ラストシーンに写し出されるジャックの表情は幸せそうです。
映画『シャイニング』より引用
つまりジャックは”虚構”の世界に囚われて、二度とそこから出られなくなってしまったわけです。
『レディプレイヤー1』の中でこの「シャイニング」のラストシーンの写真のジャックの部分に若き頃のハリデーが写し出されていた点は本作の最大のポイントとも言えるかもしれません。
ハリデーは女性に上手くアタックできなかったことを契機としてフィクション世界への傾倒をより強めていき、親友のモローをも追い出してしまいましたからね。
「アラブ、祈りとしての文学」岡真理
本書は映画や本が好きな人であれば、読んでおきたい1冊と言えます。
ヨーロッパで起こったテロ事件は世界中で報道され、普遍的な悲劇として人々に共有されます。
その一方で中東世界でアラブ人の見に起こった悲劇というものは、普遍的な出来事であるとして共有されることもなく、アラブという特異な世界で起こった特殊な事例と見なされてしまうことが多いのです。
9.11は人類普遍の大惨禍として記憶されている一方で、パレスチナ人が大量虐殺された事件は世界中の人々に知られることもありません。
アフリカの人々が直面する真の貧困は世界に伝わりません。
飢えている親子に食べ物を渡したら、子供に与えることなくそれを母親が一人で食べてしまう。そんな想像を絶するような貧困の現状が確かに存在しているにも関わらず、それは人類普遍の事象とはなり得ないのです。
では、これを問題視した文学者がそれを文学はたまた映画という媒体で世に送り出したとしましょう。
おそらく世界は何も変わらないと思います。かつてサルトルが文学の無力さに直面したことは有名な話ですが、文学は現実世界に影響を及ぼすことはできないのです。
岡真理さんは「アラブ、祈りとしての文学」の中でサルトルが直面した文学の無力性に呼応する形で文学に「祈り」という役割を見出しています。
文学は現実を変えることはできません。しかし普遍的になり得ない世界の片隅で起こる悲劇や惨禍で死にゆく人々に対し、人々は文学作品に触れることを媒介にして思いを馳せ、そして「祈り」を捧げることはできます。
それこそが文学の持つ役割ではないか?というのが本書の主張です。
これは映画ないしフィクション全体に広げて考えることのできる主張です。”虚構(フィクション)”というものは現実世界からは隔離されたものであり、現実に影響を及ぼすことはできなのだと言い換えることができます。
本作『レディプレイヤー1』の序盤ではエイチが非常に印象的なセリフを発していましたよね。現実世界とOASISは相いれないものであり、OASISの出来事を現実世界に持ち込むなとウェイドに忠告していました。
OASISの世界があれだけ活気づいているのに対し、現実世界が無気力的で退廃的なのも”虚構(フィクション)”が”現実(リアル)”に影響を及ぼさないことの証明と言えるでしょう。
スピルバーグ監督からのメッセージ
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED 映画『レディプレイヤー1』予告編より引用
スピルバーグ監督が本作で伝えようとしたのは、「OASISのような虚構の世界も良いが、現実世界も大切にしなければならない」という視点です。これがハリデーの口からスピルバーグ監督自身のメッセージとして語られています。
本作の展開や演出は考えれば考えるほどに素晴らしいです。
終盤のパーシヴァルの呼びかけに応じてOASISのキャラクターたちが集まってくるシーンは鳥肌が立つほどに興奮しました。ただこれは”虚構”の世界だから集まった、ゲーム感覚で集まっただけだと片づけられてしまうかもしれません。
しかしその後のシーンでウェイドがIOI社の追っ手に追われているからスタックに助けに来てほしいという呼びかけると大勢の人が現実世界で彼を助けに来てくれるんです。
この2つのシーンは間違いなく呼応していて、”虚構”が”現実”に作用していることを示しています。
他にもサマンサは右目にあるあざを自身のコンプレックスとしています。
だからこそウェイドの”リアル”で会いたいという申し出に自信を持つ事ができませんでした。彼女はそんな自身のコンプレックスから解放される”虚構”の世界に逃げ込んでいたのです。
しかし第3の試練の舞台へと突入するための闘いの最中で映し出される彼女の顔には現実世界と同じあざが出来ています。これはまさしく”虚構”の世界と”現実”の世界のリンクを表現していて、”虚構”の世界の出来事が”現実”の彼女を変えたことを仄めかしています。
加えて終盤の3つの試練をクリアしたウェイドがハリデーと邂逅するシーンです。このシーンで2人のハリデーが登場します。大人のハリデーと子供のハリデーです。
大人のハリデーはいわばOASISの世界に囚われた”虚構”の世界の住人です。”現実”世界で一歩踏み出せない自分の恥じ、何者にでもなれる”虚構”の世界の構築へと傾倒していった彼の姿です。
一方で子供のハリデーは部屋から出ることもなくゲームという”虚構”に明け暮れたかつての彼の肖像ですよね。家族と出かけることもなく、友人と遊ぶこともない。ゲームに没頭する幼少期の彼は間違いなく”虚構”の世界の住人です。
しかしゲームをクリアしたウェイドに別れを告げると、2人のハリデーは共に部屋から出ていきます。これは2人の”虚構”の世界の住人が”現実”へと解き放たれたことを意味していると思いました。
スピルバーグ監督の描く”虚構”の世界の魅力と”現実”の世界の重要性は細かいシーンを見ていても強く感じ取ることができます。
またハリデーに対してウェイドは「あなたは何者だ?」と問いかけますが、ハリデーは「私のゲームで遊んでくれてありがとう。」とだけ告げて去っていきます。
これってつまりハリデーの正体はスピルバーグ監督本人だということを示唆していますよね。
『レディプレイヤー1』という作品を見に来てくれた、自分の作り出したフィクション世界を体感してくれた我々に向けて「ありがとう。いつでも帰っておいで。」と温かいメッセージを送ってくれているようにも感じられました。
まとめ
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED 映画『レディプレイヤー1』予告編より引用
スピルバーグ監督が満を持して世に送り出した『レディプレイヤー1』の持つ意義とは一体何だったのでしょうか?
それを考えた時に私が辿りついたのは2つの答えです。
1つ目は1921年7月4日の写真からジャックを解き放ったことです。
人間という生き物は現実に嫌気がさすと、当然の防衛機制としてそこから逃避しようと試みます。そして逃げこむのが”虚構(フィクション)”の世界です。
ジャックは映画「シャイニング」の中で世俗的な価値観や考え方から逃れ、狂気の中に身を落とし、1921年7月4日のオーバールックホテルの写真というフィクションの中に固定されてしまいました。
彼は現実世界に戻ることができなくなり、”虚構”世界の住人となったわけです。この境遇は本作『レディプレイヤー1』のハリデーに似ています。それでいてOASISに依存している映画の中の世界の人々全員を表しているとも言えます。
2045年の地球は荒廃しており、人々は”現実”世界をより良くしていくことに諦めを感じ、OASISの中へと逃げ込んでしまったわけです。
しかしOASISで起こる物語がどんどんと”現実”へのリンクを強めていくにつれて、人々は”現実”世界でも活気を取り戻していきます。先ほど③の論拠で示した3つのシーンまさしくそうです。
本作『レディプレイヤー1』は長らく”虚構(フィクション)”の中に囚われていたジャックを救い出した、つまり現実の重要性を実感と手触りのあるものとして取り戻したわけです。
こう考えると映画の中でオーバールックホテルの写真のジャックの位置にハリデー写り込んでいたのは極めて示唆的な描写だったんですね。
そして2つ目は”虚構(フィクション)”の可能性を示した点です。
先ほど紹介した岡真理さんの「アラブ、祈りとしての文学」やサルトルの思想を鑑みても分かる通り文学や映画などの創作物が現実世界に力を及ぼすことはできないという見方が極めて強いのが現代です。
しかしスピルバーグ監督はキャリアの晩年に差し掛かろうとする中でこの『レディプレイヤー1』という作品を通して、映画の持つ力を示そうとしたのではないかと感じました。
特に終盤の現実世界のスタックにウェイドを助けようと大勢の人たちが詰めかけたシーンでその意義が顕著になったように思いました。
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED 映画『レディプレイヤー1』予告編より引用
映画は無力で、せいぜい「祈り」を捧げるためのものなのかもしれません。現実世界になんら影響を及ぼさない”虚構”なのかもしれません。それでもスピルバーグ監督は信じ続けているのです。
映画で世界を変えられると。
外部化への警鐘を込めて
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED 映画『レディプレイヤー1』予告編より引用
本作『レディプレイヤー1』に込められたスピルバーグ監督の未来への警鐘は何だったのかと考えてみますと、それは外部化への警鐘にあるのではないかと思いました。
人間は様々なことを外部化して便利な生活を獲得してきました。人間は備わっている機能をどんどんと使わなくなり、代わりに外部からそれを補強しているんです。
例えば病人の世話、高齢者の世話はどうでしょうか?かつては自宅で面倒を見るのが当たり前だったにもかかわらず、どんどんと病院や老人ホームといった施設にその役割が外部化されていっています。
もっと身近な例を出しましょう。エレベーターやエスカレータはどうでしょうか?人間は自分の運動機能を使わず、それをそれらの機械に委託することで少ない労力で同等の移動を獲得できます。
スーパーで売っている食肉はどうでしょうか?我々は家畜を自分で育てて、それを殺した上で肉を食べているわけではありませんよね。家畜を育てることも、それを殺すことも、それを精肉することも全てを自分の外部に委託し、対価を払うことでそれを享受しています。
では、それが行き過ぎた場合にどうなるかと言うと伊藤計劃氏の『ハーモニー』という小説に描かれたような結末が待っているわけです。人間は最終的に自分の意識すらも外部化してしまい、それによって完全に調和のとれた社会を構築するのです。
『レディープレイヤー1』が描いたのは荒廃した世界の中でOASISというVR世界の中に救いを求める人々の姿です。そこには、これまで人間に内在していたスポーツやダンス、人との交流・・・何もかもが存在しています。
人々はOASISという世界に自分たちの娯楽を外部化してしまったんですよ。現実世界には存在する確かな実感や手触りを機会が信号として与える疑似的なものへと変えてしまったわけです。
人間は自分たちの生活を少しでも豊かで、便利なものにしようと自分たちに備わった機能をどんどん外部化していきます。しかしそれが行き過ぎると、『レディプレイヤー1』のような実感の無い娯楽にさもしく熱狂するディストピアの光景が広がるわけです。
外部化こそが発展であり、未来であるとされた時代はもう終わりを告げ始めているのかもしれません。
これはまさかの”パリ、テキサスシステム”か?
映画『レディプレイヤー1』の序盤から中盤にかけては基本的にOASISの中の世界が印象的に映し出されますよね。ひたすらにパーシヴァル視点でOASISの世界の魅力をこれでもかというくらいに見せつけてくれます。
しかし中盤のパーシヴァルないしウェイドがアルテミスに好意を寄せ始めた頃から、パーシヴァル視点と共にVRゴーグルを装着したウェイドの映像が挿入されるようになるんです。
たとえば上記の画像はダンスフロアでパーシヴァルとアルテミスが見つめ合っているシーンなんですが、このシーンではウェイド自身の映像がパーシヴァル視点のシーンの間に挿入されています。
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED 映画『レディプレイヤー1』予告編より引用
この時にウェイドのゴーグルに映っているアルテミスの虚像にお気づきでしょうか?つまりウェイド視点のシーンになると、パーシヴァルがアルテミスを見つめているのではなく、ウェイドがアルテミスを見つめているという意味合いに切り替わるんです。
このように反射する物体に映り込んだ像を用いて演出することを徹底的にやり通して高い評価を獲得したのがヴィムヴェンダース監督の『パリ、テキサス』だからということでこの演出方法を勝手に”パリ、テキサスシステム”と命名しました。
この演出が映画『レディプレイヤー1』に何をもたらしているのかといいますと、それは徐々にパーシヴァルとしてではなく、ウェイドとしてOASISの問題に立ち向かおうとする彼の成長を視覚的に描き出しているんですよね。
しかも一気にやるのではなくて、後半にかけて徐々にこの演出を増やしていっているのがまた憎いんですよ。
当初はOASISというフィクションに逃避していたウェイドがパーシヴァルという幻の自分ではなく、ウェイドいう1人の実体を持つ人間としてOASISと向き合う様が精緻に描かれています。
特にドゥームの惑星で、OASISの全住人たちに向けて演説するシーンではパーシヴァルとしての彼とウェイドとしての彼がクロスオーバーするように映像が配置されていました。この辺りの映像表現が非常に上手いですよね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『レディプレイヤー1』についてお話してきました。
それにしてもやっとスピルバーグ監督が帰って来た!!って感じでしたね。
特に終盤は全身のあらゆる部位という部位が勃ちまくって、おかしなテンションになっていました。
映画館で上映されている間に最低でも3回は鑑賞しておきたいと思いました。
皆さんも映画『レディプレイヤー1』を見て、退屈な日常からトリップしてみてください。そして現実の尊さについても今一度考えてみてください。
本作でサマンサ役を演じたオリビア・クックという女優さんが「ぼくとアールと彼女のさよなら」という作品に出演していてこれがまた非常に素晴らしい作品なので良かったらチェックしてみてください。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。