目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『孤狼の血』についてお話していこうと思います。
久しぶりの東映本気のヤクザ映画ということでもう期待値MAXで見に行ったのですが、その予想をはるかに上回るクオリティでして、正直圧倒されました。
作品の内容で詳しく踏み込んで解説を加えていくというのも1つ考えたのですが、今回は本編の詳細なネタバレは避けつつ、映画に関連したワンテーマの下に自分の考えを書いてみようと思います。
今回扱うテーマは「映画にバイオレンス描写は必要なのか?」です。
記事の都合上、作品のネタバレになるような内容を含むことがありますので、未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『孤狼の血』
あらすじ・概要
広島の架空都市・呉原を舞台に描き、「警察小説×『仁義なき戦い』」と評された柚月裕子の同名小説を役所広司、松坂桃李、江口洋介らの出演で映画化。
「凶悪」「日本で一番悪い奴ら」の白石和彌監督がメガホンをとった。
昭和63年、暴力団対策法成立直前の広島・呉原で地場の暴力団・尾谷組と新たに進出してきた広島の巨大組織・五十子会系の加古村組の抗争がくすぶり始める中、加古村組関連の金融会社社員が失踪する。
所轄署に配属となった新人刑事・日岡秀一は、暴力団との癒着を噂されるベテラン刑事・大上章吾とともに事件の捜査にあたるが、この失踪事件を契機に尾谷組と加古村組の抗争が激化していく。
ベテランのマル暴刑事・大上役を役所、日岡刑事役を松坂、尾谷組の若頭役を江口が演じるほか、真木よう子、中村獅童、ピエール瀧、竹野内豊、石橋蓮司ら豪華キャスト陣が脇を固める。
(映画com.より引用)
予告編
『孤狼の血』感想・解説:映画にバイオレンス描写は必要なのか?
昨今の映画情勢を見て・・・
(C)2018「孤狼の血」製作委員会
近年の映画を見ていると、ふと気がつくことがある。
それは「血の臭い」がしないことに他ならない。
それは邦画であってもアメリカ映画であっても万国共通でそういう風潮があることは自明だ。
とはいってもバイオレンスな映画が全く作られなくなったというわけではない。作られてはいるのだが、人々の目に留まる機会が圧倒的に減ってしまったという方が正しいだろうか。
残酷な描写を含む作品は小規模上映へと追いやられ、さらにはR指定がつけられて、興行の機会も縮小されてしまう。そうなるとバイオレンス描写を映画に内包させることそのものにメリットが感じられなくなっているのだ。
そういう描写を排除してしまえば、全年齢対象で大規模公開できるような映画が、その残酷性と暴力性のために小規模上映に追いやられてしまうのであれば、あえて血生臭い映画にする必要性は内容にすら思えてしまう。
アメリカ映画の近年の風潮を見ても大規模公開され、大ヒットしている映画群の中に暴力描写が鮮烈な映画はほとんど見受けられない。
近年ならば『マッドマックスFR』や『IT』のリメイク版が気を吐いたが、作品的にはごく僅かだ。
その一方で血や性といった生々しさやグロテスクさを綺麗に取り去ったアメコミヒーロー映画やディズニーアニメーション映画なんかが映画興行の中心に君臨しているではないか。
こういう類の映画が世界の映画シーンを席巻しているところを見ると、暴力的な映画というものがもう現代には居場所を残していないのではないかとすら思えてしまう。
日本ではさらにその傾向が顕著です。日本では数多くの戦争映画が作られているし、今でも作り続けられている。戦争映画は興行的にも期待できるジャンルであるから、大規模公開されることも珍しくにだろう。
しかし近年の日本の戦争映画はどんどんと血生臭さが洗い流されている気がするのだ。
だからこそ塚本晋也監督が「野火」のようなグロテスクで暴力的で残酷な映画を撮ろうとするとそもそも資金すら集まらない現状がそこにはある。
その一方で日本映画界は恋愛映画や漫画の実写化、アニメ映画を興行の主軸に据えているが、そこにあるのは年齢を問わず誰しもが楽しめる極めて「クリーン」な映画だ。
血生臭さは綺麗さっぱり脱臭され、純粋な娯楽としての映画がそこにはある。
北野武監督が映画『アウトレイジ』に関してのインタビューでこんなことを話していた。
これは世界的な傾向なんだけど、映画の方向として、絆とか愛とか、そういうのばっかりが出てきていて。暴力映画なんかほとんどないんだよ。
もう、友情だ、親子の愛だなんだって、そればっかりなんだ。
で、その嘘くささにイライラして前作の『アウトレイジ』を撮った。
確かにカンヌでは「暴力映画だ」って言う人もいて、賛否両論だったけど、会場は喜んじゃって、相当盛り上がったからね。
『アウトレイジ』も現代の平和ボケした映画シーンに「痛み」を突きつけたセンセーショナルな作品だったことは言うまでもない。
彼がこの映画を撮影し、国際映画祭の舞台で高い評価を受け、日本で大規模上映されたという事実は、まだ映画には暴力が必要とされているのではないかという一縷の望みを感じさせてはくれないだろうか。
東映ヤクザ映画の衰退
(C)2018「孤狼の血」製作委員会
東映と言えばやはり「警察映画」や「ヤクザ映画」、「任侠映画」だというイメージを持っている方も少なくはないだろう。現に1960年代~70年代にかけて東映は暴力映画で一世を風靡した。
特に本作『孤狼の血』にも大きな影響を与えたとみられる1973年に端を発する『仁義なき戦い』シリーズは大ヒットし社会現象とも言われた。
その後東映のトレードマークともなった「実録~」シリーズも公開するたびに人々の注目の的となり、大ヒットした。
しかし、80年代、90年代に入り東映のバイオレンス映画は衰退の一途を辿ることになる。こうした映画はVシネマという冠詞をつけられ、小規模公開へと追いやられ、そもそも製作される数も激減していった。
一体なぜ「ヤクザ映画」は衰退してしまったのかそれは90年代初頭に制定された暴対法の影響が大きいだろう。
北野武監督もこの暴対法がヤクザ映画や任侠映画に計り知れない影響を与えたと語っている。
ヤクザと暴対法の関係性について描いた『ヤクザと憲法』という面白いドキュメンタリーがあるので良かったらチェックしてみてほしい。
暴対法の影響でヤクザという存在にリアル感が失われたのである。
この法律がヤクザを日本の表舞台から消し去り、不可視化してしまったわけだ。確かに日本の裏社会にはまだまだヤクザや暴力団が蔓延っているが、なかなか一般人の目に触れる機会は少ない。
ヤクザという存在そのものが古典になりつつあり、東映が力を尽くしてきた暴力映画ももはや過去のものとなりつつある。そして世界的には暴力を映画から排除しようという潮流すらみられる。
そんな現状で「ヤクザ映画」を「暴力映画」を復活させて、大規模公開させる必要性があるというのだろうか。
白石和彌が復活させた実録映画の系譜
(C)2018「孤狼の血」製作委員会
そんな現代日本に2016年1つの映画が公開された。新進気鋭の白石監督と東映がタッグ組んで作られ、大規模公開された「日本で一番悪い奴ら」という作品だ。
古き良き東映の「実録~」シリーズの流れを感じさせるこの映画はR15+指定を受けながらも、鮮烈な暴力描写を内包し、衝撃を与えた。
東映は現代にバイオレンス映画を作る意義をもう一度模索し始めたのだ。しかし、興行的には最終的に4億円という数字に留まり、ヒットとは言えない結果になったことは否めない。
この結果を受けて東映はまた暴力映画を作ることを諦めてしまうだろうと私自身も予見していた。もはや大規模公開で「ヤクザ映画」がヒットする時代は終わったのだと。
あれだけネームバリューのある「アウトレイジ」でさえもシリーズ3作目でようやく15億円の興行収入に到達したという有り様で、1からバイオレンス映画を作るというのはあまりにもリスクが高い。
それでも東映は暴力映画を現代によみがえらせる意味を探し求めるのか、それとも諦めてしまうのか。その答えは本作「孤狼の血」が公開されたことで結論付けられた。
白石監督と東映が再びタッグを組んで作られた「孤狼の血」という作品はまさに「東映の本気」を感じられる映画であったことに他ならない。
本作のパンフレットの中にプロデューサーの対談が掲載されているが、彼らはこの「孤狼の血」の原作を読んだときに直感的に「絶対に東映で映画化しなければ」と感じたそうだ。
そんな東映の威信とプライドをかけた本作は2016年に大ヒットした東宝の『シン・ゴジラ』を彷彿させる。
初代ゴジラへのリスペクトを感じさせつつも新しい世代に向けてのゴジラ映画を復活させた東宝、古き良きヤクザ映画、『仁義なき戦い』や『県警対組織暴力』といった作品への敬意を感じさせながらも新しいの世代へ向けての暴力映画を作り上げた東映。
日本の配給会社の意地をこれほどまでに見せつけられた作品は他にない。
この東映本気の映画にそれに見合うだけの数字がついてきてほしい。
純粋に一映画ファンとしてそう願わずにはいられないのである。
映画にバイオレンス描写は必要なのか?
(C)2018「孤狼の血」製作委員会
さてここからが本記事の中心発問である「映画にバイオレンス描写は必要なのか?」というテーマについてのお話になる。
映画からバイオレンス描写が排除されてきた背景に1つの科学的な根拠があることは言うまでもないだろう。
心理学的に見ると映画のバイオレンス描写が見る人の攻撃性を高めることが研究の結果明らかになったというのである。
だからこそ子供の心的な発達に悪影響を及ぼすとしてバイオレンス映画には年齢指定されるのは当然の流れとも言える。日本でも性的なコンテンツに関しては古くからR指定がつけられていた。
暴力的な描写にR指定がつくようになったのは、97年に起きた神戸連続児童殺傷事件やその頃に起きた一連の猟奇的殺人事件が一因とも言われている。
2013年ごろに公表された過去18年間にわたってテレビの暴力シーンが子供に与える影響を調査した結果以下のような傾向があると結論付けられた。
- 低年齢の子どもたちほど、影響を受けやすい
- 見たすぐ後の興奮状態、思考、感情に変化が起こりやすい
- 攻撃的な行動やおびえた行動を示しがちになる
現在この研究結果に異議を唱えるような研究も成されているが、全く影響を及ぼさないと言ったら嘘になるだろう。
映画を見ると多くの人が何らかの影響を受けるだろう。友情をテーマにした作品を見たら、友達を大切にしようと思うかもしれないし、恋愛をテーマにした映画を見たら、自分も恋愛をしたいと思うかもしれない。
ただそういう感情的な印象というのは非常に弱い。そもそもそれが人間の行動に影響を与えるに至るほどの強い意志へと変化することがまず少ない。
私がたびたびこのブログで名前を挙げている岡真理さんの「アラブ、祈りとしての文学」を読んでもそれは明らかで、結局映画というものは、感情に訴えかけたところで社会的に何か影響を及ぼす可能性というのは極小なのだ。
しかし、暴力映画は違う。暴力映画が訴えかけるのは人間の感情ではなく、感覚なのである。痛覚や快楽という人間のもっと本能的な部分に訴えかけてくるのだ。
だからこそ暴力映画やバイオレンス描写が人間の行動に影響を与えたという研究データが上がってくるのである。
いくら4DXシアターで身体を揺さぶっても、水をかけられても、IMAXシアターで大画面で映像を見ても、極上の音響で見ても、その感覚に訴えかける映画と言うのは実現しえない。所詮は印象の違いというレイヤーに留まってしまう。
近年映画を見ていて、映画を見ている自己を知覚することが少ない。映画を見ている時に「ライブ感」を感じないということでもある。もっと言うなれば近年の映画から「生」の臭いがしなくなっているとでも言えるだろうか。
血生臭さを綺麗に脱臭した映画は純粋な娯楽として楽しめるが、結局はそこで終わってしまう。だからこそそういう映画作品には、映画的は素晴らしさは感じるものの、映画に血が通っている感じがしない。
以前に映画『ラストナイツ』の舞台挨拶を見に行った時に監督の紀里谷和明さんに質問させていただく機会があった。私はこの『ラストナイツ』という映画からなぜ暴力性を排除したのかという質問を投げかけた。
それに対して紀里谷和明監督はグロテスクな描写は本作のストーリーテーリングに必要ないと考えたからと語った。
それにより確かにこの作品は美しい映像と緻密なストーリーテーリングを実現してはいたが、赤穂浪士を題材にした映画と言うのに全く持って「ライブ感」がない。「生命」の臭いがしないのだ。
だからこそ映画『孤狼の血』を見ていると、久しぶりに血の通った映画を見ているという実感が湧いた。映画を見て痛みを感じている自分がそこにいる実感を持てた。映画に登場する暴力を見て、体内である種の快楽物質が分泌されていることを感じた。自分の「生」を実感した。
こんな経験は他のどんな映画でも味わいがたいものだ。
確かに映画からバイオレンス描写を排除することは、現在の映画シーンにおいてはメリットの方が大きい。それは興行的な面から鑑みても明らかなことだろう。
それでも暴力映画が我々に感じさせてくれる生々しい「生」の実感は、いくら4DXやVRといった技術が我々に疑似的な「生」をもたらそうとしても実現できないものである。
いつから映画から「生」が排除される気風が高まったのだろうか。
それでも現代にこれほどまでに血が滾るような暴力映画を復活させた東映の功績は大きい。しかも新規タイトルにも関わらず、300館超という大規模でかつ相当な予算をつぎ込んで、まさに社運を賭けた映画として世に送り出した気概に惜しみない称賛を贈りたい。
ぜひ1人でも多くの方に本物の「痛み」を劇場で体感してほしい。
そして東映にはこれからも暴力映画を世に送り出し続ける「孤狼」であって欲しい。世界が映画から暴力を締めだしたとしても東映だけは暴力を描き続けて欲しい。
絆や愛が欺瞞でも痛みだけは真実だ。
原作との違いに見る白石監督の視点
さて本作『孤狼の血』という作品はそもそも柚月裕子さんの小説が原作になっております。
「警察小説×仁義なき戦い」なんて評もあるようですが、作者自身が東映の名作暴力映画の数々に影響を受けたことを語っておられます。
ここからは少し原作と映画にの違いに見える映画版の視点を解説・考察をしてみようと思います。
やはり映画版と原作で最も大きく異なっているのが、大上と日岡の2人の関係性ですよね。
原作では大上のウェットな過去が描かれ、大上という人物に漂う哀愁すら感じられます。しかしパンフレットでも言及されている通りで、ここに関してはかつての東映ヤクザ映画よろしくカットされています。
それに伴って日岡の下の名前「秀一」が亡くなった大上の息子の名前と同じであるという設定も無くなりました。
それにより大上の日岡に対する思い入れの強さが映画版では見えにくくなったんですよね。これは1つ映画版の弱点とも言えます。
しかし映画版はきちんとそれに代わる展開を用意してくれていて、それがぴたっと作品にハマっています。
本作『孤狼の血』はやはりどこまでも「継承」の物語です。
原作では大上から日岡へというベクトルが強調されていたのに対して、映画版では日岡から大上へというベクトルが強調されています。
この改変が功を奏して原作以上に日岡というキャラクターが魅力的に映っていましたし、そういう見せ場が少し目減りしつつも、それを感じさせない役所広司の演技は言うまでもなく素晴らしいと思いました。
映画版を見た後にぜひぜひ原作も読んでみてください。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は映画『孤狼の血』についてお話してきました。
本作『孤狼の血』の素晴らしいポイントの1つとして松坂桃李演じる日岡が挙げられます。
もちろん彼の演技自体もキャリアハイと断言できるものでしたが、それだけではないのです。
(C)2018「孤狼の血」製作委員会
彼が演じた日岡というキャラクターは、東映が60~70年代に作り上げてきたヤクザ映画の系譜を次の世代の人間として引き継ぐという役割を担っていました。
本作『孤狼の血』は確かに映画的な目新しさは少ないと言えます。古き良き東映映画の流れを汲みながら白石監督のノワールテイストが合わさったという極めて「温故」の側面が強い作品ではあります。
しかし劇中で大上から日岡へ渡されるバトンと言うのは、まさに新世代に「ヤクザ映画」の歴史が引き継がれたことをも意味しています。
だからこそ本作はまさに「橋渡し」の映画なんですよね。先人たちが作り上げてきたものを引き継いで、そして新しく世に送り出していく。
つまり松坂桃李演じる日岡が作中で下す決断と言うのは、まさにこれから東映が再び暴力映画で戦っていこうという決意の表出でもあるのです。
また面白いのは原作では割と序盤から暴力に手を付けている日岡が映画版では大上の亡き後に何かを決意したように暴力性に目覚めるところですね。
冒頭でも華麗な寸止めを披露していましたが、徹底的に暴力には頼ろうとしない彼が最後の最後で目覚めます。
このシークエンスが非常に熱いですし、メタ的に見ても、東映暴力映画の流れを彼が受け継いだことが明確になっていますよね。
映画の内容に踏み込んで詳しく解説し始めるとキリがなさそうなので、今回は少し違った視点で本作『孤狼の血』について考えてみました。
ぜひ映画館で東映本気の暴力映画を体感してください。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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