みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね公開からしばらく経過してはいますが映画『スリービルボード』についてお話してみようかと思います。
劇場で見逃してしまったのが、悔やまれるのですが、本当に素晴らしい作品でした。
『ゲットアウト』と脚本賞を争い、惜しくも敗れましたが、脚本は近年まれにみる出来栄えです。
今回はそんな作品について自分なりの解説・考察を書いていこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『スリービルボード』
あらすじ・概要
2017年・第74回ベネチア国際映画祭で脚本賞、同年のトロント国際映画祭でも最高賞にあたる観客賞を受賞するなど各国で高い評価を獲得し、第90回アカデミー賞では主演女優賞、助演男優賞の2部門を受賞したドラマ。
米ミズーリ州の片田舎の町で、何者かに娘を殺された主婦のミルドレッドが、犯人を逮捕できない警察に業を煮やし、解決しない事件への抗議のために町はずれに巨大な3枚の広告看板を設置する。
それを快く思わない警察や住民とミルドレッドの間には埋まらない溝が生まれ、いさかいが絶えなくなる。そして事態は思わぬ方向へと転がっていく。
娘のために孤独に奮闘する母親ミルドレッドをフランシス・マクドーマンドが熱演し、自身2度目のアカデミー主演女優賞を受賞。
警察署長役のウッディ・ハレルソンと差別主義者の警察官役のサム・ロックウェルがともにアカデミー助演男優賞候補となり、ロックウェルが受賞を果たした。
監督は「セブン・サイコパス」「ヒットマンズ・レクイエム」のマーティン・マクドナー。
(映画com.より引用)
予告編
『スリービルボード』解説・考察(ネタバレあり)
迷いと人間らしさ
人は何事もそれが正しいか、間違っているか分からないままで行動する。
善悪の判断がつかないままで、それでも選択し、決断する。
ただそれこそが人間らしさでもある。生きることは迷うことでもある。
その人間の弱さと迷うことの正当性を『スリービルボード』という映画は優しく包み込むように肯定してくれる映画だと感じた。
人は善悪の判断を機械的に行うことが出来ない。機械であれば、客観的な情報とデータベースによって物事の最適解を導き出し、それによって理論的にかつ数学的に善悪の判断を下せるだろう。
しかし、人間の場合、そのプロセスに「倫理観」や「価値観」というアンビギャスな観念が絡まってくる。
それによって人間は「迷う」ことになる。
冒頭のワンシーンでミルドレッドはウィロビーにアメリカの全男性の血液を採取してデータベース化しておけば、犯罪が起きた時にすぐに犯人を割り出せるだろうと提案している。
これはまさしく「倫理観」や「価値観」という人間特有の曖昧さを排除して極めて論理的な提案と言える。
だからこそそれは人間の社会にそぐわない。それがどれだけ正しいものだとしても、人間はその正しさを受け入れないだろう。
そんな人間特有の迷いを本作の登場人物はそれぞれに抱えている。
主人公のミルドレッドは自分の娘が凄惨に殺害された事件の捜査をなかなか進めない警察に怒りを感じ、広告でもって警察やウィロビーを糾弾する。
(C)2017 Twentieth Century Fox
しかし、その一方で彼女は末期のガンで余命僅かなウィロビーに同情する様子を見せる。
物語の後半に警察署に火炎瓶を投げ込む手立てをするが、彼女は決して人を殺すまいと何度も警察署に電話をし、人がいないかどうかを確かめた。
彼女は「怒り」の感情を主軸にして行動しているが、そこには「迷い」が見え隠れしている。
署長のウィロビーもそうである。
彼は品行方正な警察官で街の人からも慕われている。そんな正義を行使する人間が、ディクソンという差別主義者で暴力主義者の男を匿っているのだ。
(C)2017 Twentieth Century Fox
一方で物語中盤までのディクソンには「迷い」がない。
彼は徹底して黒人差別を貫き、気に入らないことがあれば暴力でもって収束させようとする。
だからこそウィロビーが死んだ暁には何の迷いも無くレッドの広告会社に乗り込んでいき、彼を窓から放り投げる。そこに何のためらいも感じられない。
そんな時にミズーリ州のあの町にやって来るのがアバークロンビーという男だ。
彼はミズーリ州の片田舎の警察署にウィロビーの後任としてやって来る。そして彼が最初に行った仕事というのがディクソンの解雇だ。
アバークロンビーという男はそれを何の「迷い」もなく決断したのだ。
ディクソンという男は差別主義者で暴力主義者だ。間違いなく当時の彼は警察官として不適格だ。しかし解雇の決断に違和感を感じてしまうのはなぜだろうか。
そして街にやって来たアバークロンビーという男に感じる違和感の正体は何物なのだろうか?
(C)2017 Twentieth Century Fox
ミルドレッドが警察署に火炎瓶を投げ入れたシーンを見て欲しい。
このシーンで事件の状況を見ていない彼が想像しうる事件の全貌は、解雇された腹いせに警察署に放火したディクソンが自らもやけどを負ってしまったという推論ではないだろうか?
他にもいろいろな可能性を孕んでいる。
加えて、アバークロンビーは町に来てまだ日が浅く、町の事情を知らない状態でもある。
しかし、アバークロンビーという男は一抹の「迷い」も感じることなく、ミルドレッドこそが犯人であると断定し彼女に尋問しているではないか。
アバークロンビーに感じる違和感の正体はおそらく「迷い」がないこととそれに付随する人間らしさの欠如だ。
彼は極めて論理的かつ体系的に導き出した決断を元に行動している。終盤のシーンでディクソンがDNAを採取した男が犯人ではないと分かった時も彼は極めて機械的でかつ事務的に犯人ではないという事実と証拠を提示する。
そこに彼が犯人かも知れないという「迷い」を一切感じないのだ。
『スリービルボード』においてアバークロンビーという男の登場をトリガーとして人間らしい「迷い」を取り戻していくのがディクソンである。
彼は何のためらいもなく差別主義、暴力主義を振りかざす男だったが、徐々に彼は自分の行動に「迷い」を感じるようになる。
だからこそアバークロンビーから男が犯人ではなかったと証拠と共に突きつけられようと彼は「迷い」を捨てきれない。
(C)2017 Twentieth Century Fox
そしてラストシーンは印象的だ。車に乗りアイダホへと向かうミルドレッドとディクソンはその男に会って殺すのかどうかを「迷って」いる。しかし、その「迷い」すらも美しく肯定して魅せる。
本作はその主軸となる事件の全容に関してすらアンビギャスに描いている。犯行は約7か月ごろ前。男が女性をレイプしたと語ったのが約9か月前。
しかしその男は何を思ったか一度ミルドレッドのギフトショップにやって来て、商品を破損させ、彼女を挑発している。
このサブタルな事件の描き方は本作の主眼が事件の真相にはないことを明確にしている。
迷いながら生きることの人間らしさ
私は『スリービルボード』という作品を人間賛歌であり、管理社会や人工知能への警鐘でもあると考えている。
人間の最大の欠点は「迷い」である。それがために人間は時に論理的に正しいと決断された選択肢を選択できないことがある。それは機能的な欠陥に他ならない。
だからこそその「迷い」を排除することで完璧な社会を作り上げればよいではないかという考えに至ったならば、それは伊藤計劃の『ハーモニー』の世界だ。
人間が意識を外部化することで真に正しい社会を作り上げんとするこの物語は我々の社会に鮮烈な問いを投げかけた。
なぜならそれはあまりにも正しすぎるからだ。
人間の意識というものは数学的に体系づけられたものではない。だからこそ欠陥がある。それを外部化し、絶対的な正しさを有する人工知能に委ねたならば人間の社会は究極の調和を生み出すことだろう。
しかし、そこにもはや人間としての人間は存在しない。動物としての人間、いやもうそれ以下の存在になり下がるかもしれない。人間は「セカイ」というシステムを構築するためだけの機能的な存在へと成り下がるのだ。
人間という生命体は知性ゆえに迷う。
しかしそれこそが人間がこれだけ豊かな世界を築くことが出来た最大の要因ではないだろうか。
「迷う」ことなく既存のデータベースに乗っ取って論理的思考を施行するだけの存在であったならば、人間は未だに動物の域を出ていなかっただろう。
文化も言語も何もかもが「迷い」故に生まれたものとも考えられる。人間は不完全だからこそ前に進むことが出来る。『スリービルボード』のディクソンが「迷い」を得て、真に「警察官」として目覚めたようにだ。
だからこそ人間は「迷う」ことを捨ててはならない。本作のタイトルにもなっている3つの看板。
その3つ目に書かれた「How come, Chief Willohghby?」の1文は非常に面白い。
そのコンテクストが置かれている状況によって変化するのだ。
ミルドレッドの娘の事件を踏まえて考えるならば、ウィロビー署長への皮肉とも取れるこの1文は、彼亡きあとに見返すと「どうして死んでしまったんだ。ウィロビー署長。」という彼の死を哀悼するニュアンスに見えてくる。
(C)2017 Twentieth Century Fox
看板というものがそもそも人間の「迷い」に付け入り、特定の思想や行動に誘導するものであるという性質を持つものだからこそ余計に面白い。
例えば人がカレーライスを食べたいと思っている時にラーメン屋の看板を見たとする、するとその人の心の中に無意識に存在しているラーメンを食べたいという「迷い」が表象してきて、それが意識に上ってくると、その人はラーメンを食べるという行動に導かれる。
映画『スリービルボード』はそんな人間の「迷い」を肯定している。「迷い」があるからこそ人間は人間たることが出来るのだと。
もっと言うなれば、「映画」そのものが人間の「迷い」から生まれたものではないのか。確かに絵を描くという行為も映像を撮るという行為も人間の意識がなくとも機能的なプロセスによって施行することが出来る。し
かし「映画」や「絵画」、「文学」が芸術として存在できるのは、人間の意識ゆえであり「迷い」ゆえではないか。
『スリービルボード』が放つ人間賛歌は、我々に「迷いながら」生きなさいと告げている。
迷うことそれすなわち生きることであると。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は映画『スリービルボード』についてお話してきました。
アカデミー賞レースに絡んでいた作品で唯一見れていなかった『スリービルボード』をようやく見ることができました。非常に面白かったです。特にこの完成度の高い脚本には唸らされました。『ゲットアウト』と並んで、後世に残る名脚本と言えるでしょう。
またサム・ロックウェルやフランシスマクドーマンドの演技も光っていました。この作品を見終えた今、彼らのアカデミー賞受賞に何の「迷い」も感じませんね。
来月からセル版が発売され、レンタルも始まるようですので、一度見たという方も、まだ見たことがないという方も改めて本作を鑑賞してみてはいかがでしょうか。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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