みなさんこんにちは。ナガです。
今回はですね映画『空飛ぶタイヤ』についてお話していこうと思います。
映画としては、それほど傑出した内容ではないのですが、やはり池井戸潤原作ということで、安心して見られますね。
本作はトヨタのリコールの一件をベースにしたフィクションでもあり、小さな個人が大きな組織に立ち向かう王道の物語でもあります。
そんな本作について感じたことを今回は描いていこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を一部含む作品考察になります。
作品を未鑑賞の方はご注意くださいますようよろしくお願いいたします。
良かったら最後までお付き合いください。
『空飛ぶタイヤ』
あらすじ・概要
テレビドラマ化もされた池井戸潤の同名ベストセラー小説を、長瀬智也主演で新たに映画化。
池井戸潤は『下町ロケット』やドラマ『半沢直樹』の原作者としても知られています。
ある日、運送会社のトラックが脱輪事故を起こし、1人の主婦が亡くなります。
事故を起こした運送会社の社長である赤松徳郎が警察から聞かされたのは、走行中のトラックからタイヤが突然外れたという事実でした。
この事故により赤松運送は警察からは整備不良を疑われ、世間からもバッシングを受けることとなります。
しかし、社長の赤松はトラックの構造自体の欠陥に気づきます。
調査結果に不満を感じた彼は、製造元であるホープ自動車に再調査を要求します。なかなか調査が進まないことに苛立った赤松は、自社調査を始めます。
すると大企業によるリコール隠しの事実が浮かび上がってきます。
主人公の赤松徳郎を長瀬智也が演じており、ディーンフジオカやムロツヨシ、高橋一生といった俳優陣が脇を固めます。監督は「超高速!参勤交代」シリーズでもお馴染みの本木克英が務めます。
予告編
『空飛ぶタイヤ』感想・解説(ネタバレあり)
本作の印象的な人物配置
映画の中で人物を映す際に1つのセオリーがあります。
それはスクリーンの中央に人物を配置することです。
あらゆる出来事がスクリーンの端ではなく、中央で起こるように画面の構図を構築していくことは、より見やすい映画を作ることに繋がり、観客に情報を受け取ってもらいやすくなります。
確かに本作『空飛ぶタイヤ』も登場人物の表情を画面中央で超クローズアップショットで捉えるシーンが非常に多かったようには思います。
ただ、私が注目したのは、登場人物が向かい合う言わば「対決」構造のシーンにおける人物配置です。
「対決」構造の画づくりは映画の中でしばしば見られたのですが、本作においてはこのシーンで徹底的に人物をスクリーンの両端に配置する手法を取っているんです。そのためスクリーンの中央には人物がいないという状況が生まれていたんですね。
確かに1度や2度ならたまたまという可能性もありますが、このカット割りはかなり高い頻度で登場しましたので、間違いなくこれは意図的になされた演出だということが自明です。
ではこの人物配置にいったいどんな意味があるのか?ここから考察していこうと思います。
さて本作のスクリーン中央に人物を配置しない印象的な構図は一体何を意味していたのでしょうか?
私はこう考えています。本作の最大の脅威は「人間ではない」ということを仄めかしているのではないかと。つまり本作において登場人物たちが戦っていたのは人間ではないということです。
では、何と戦っていたのか?権力か?組織か?それは違います。作中で赤松が次のような言葉を使って本作の最大の敵を言い表していました。「姿の見えない敵」と。
その敵の正体というのは「情報」なのではないでしょうか?というのが私の考えです。
確かに『空飛ぶタイヤ』という作品は一見すると中小企業VS大企業、小VS大、正義VS悪の単純な勧善懲悪の物語です。物語構造も極めて池井戸潤的であるといえるものです。
ただ、表に見えているほどにこの作品の構造は簡単なものではありません。
なぜなら本作に置いて一見悪役に見えるキャラクターも、一見正義のヒーローに見えるキャラクターも等しく「情報」という名の敵と戦っているからなんです。
本作の主人公である赤松と彼の会社の社員たちは何と戦っていたのでしょうか?
(C)2018「空飛ぶタイヤ」製作委員会
それは当然ホープ自動車だということにはなりますが、本当にそうでしょうか?
赤松の会社は脱輪事故を起こしてから、取引先に契約を打ち切られ、銀行からは融資を打ち切られ、借金返済の催促を迫られました。ネット上では「殺人犯」だと罵られました。
それらは全て「脱輪事故の原因は赤松運輸にある」という情報がゆえの出来事なんです。
つまり赤松たちが戦っていたのは「情報」だったんですよ。
さらに言うと、彼らが勝つためのキーになったのも情報でした。彼らは「情報」に打ち勝つために「情報」を手に入れようと駆け回ったわけです。
では、本作のヴィラン的な立ち位置に当たる狩野はどうでしょうか?彼が戦っていたのもまた「情報」だったんだと私は考えています。
なぜなら彼は「情報」を出さないために、流出させないために戦っていたからです。彼は「情報」が流出することが自分の身を滅ぼし、ホープ自動車の権威を失墜させることを知っていました。
(C)2018「空飛ぶタイヤ」製作委員会
つまり彼は本作『空飛ぶタイヤ』において最も情報という巨大な存在の脅威をしっており、だからこそ必死に戦っていたのです。ただ最終的には、その情報の前に屈することとなりました。
『空飛ぶタイヤ』という映画の「対決」構造のシーンにおいて画面中央の空白に存在していたのは「情報」という「見えない敵」だったんだと思います。2度3度見られた赤松と沢田がホープ自動車の応接室で対面している時に、2人の間、つまりスクリーンの中央に映し出されていたのはテレビでした。テレビはまさに「情報」を象徴するモチーフと言えるでしょう。
つまりこの映画は登場人物の構図を用いて、最大の敵の存在を視覚的に仄めかしていたわけです。
しかし、本作のラストシーンでは赤松と沢田の間、スクリーン中央に柚木妙子の亡くなった場所に置かれた花束が映し出されています。
(C)2018「空飛ぶタイヤ」製作委員会
確かに「情報」は巨大な敵です。
それを淘汰することは容易ではありません。
赤松の前にも多くの人間たちが「情報」との戦いに挑み、そのあまりの強大さを前にして勝利を諦めてきました。
ただそんな硬直した戦いを動かしたのが、「血の通った1つの死」であったことが何とも印象的です。
沢田は妙子が亡くなった現場を訪れて「情報では無い死」を実感したと述べていました。
「情報」に勝てるのは「情報」だけかもしれません。
しかし、その戦いを動かしたのは「情報」としてではない原初的な血の通った事実である「死」であったところに本作の物語としての終着点があるような気がしました。
だからこそのあのラストシーンだったんでしょうね。
我々の社会と情報
(C)2018「空飛ぶタイヤ」製作委員会
今日の我々が生きる社会に目を移して見ますと、情報社会と言われるくらいに情報が支配者として君臨していることが明らかです。
情報はもはや人を「殺す」だけの力を有しています。「殺す」というのは物理的にではなく、社会的にです。例えば、芸能人は1つのスキャンダルで仕事を失います。
最近だと山口達也さんのスキャンダルは大きな話題になりました。
情報源を捻りつぶしてしまえば、彼はまだテレビに出演していたことでしょう。しかし、彼は「情報」が世間に出回ったことで、芸能界での生命を失いました。
清純派女優に彼氏が発覚すると不安が減少するのもそうです。またAmazonや食べログで素人のたった1つの意見が企業や店舗の利益に大きな影響を与えるようになっているのも注目すべき点です。
我々の社会において「情報」はすでに計り知れないほど大きな力を有しており、これが世界を支配していると言っても過言ではなくなってきています。
そんな我々の情報社会の最大の特徴が「いつでも、どこでも、だれでも」情報を発信でき、手に入るようになったという、情報のユビキタス化です。
これにより信用に値する情報と値しない情報が氾濫し、ある種のカオス空間を構築してしまいました。
または真実でない情報がまるで真実かのようにのさばったり、真実が虚偽の情報ように扱われるようになったわけです。そうして情報が今日の我々の世界に「もう1つのレイヤー」を生みだしました。
事実とは別に「情報」によってそれとは異なる世界線が存在しているということです。
そんな社会を風刺して書かれたのが私の大好きなドンデリーロという作家の「Runner」という短編です。「天使エスメラルダ」という短編集に収録されているので、ぜひぜひ読んでみてください。
あらすじとしては公園でジョギングしている男の目の前で、車に乗った男が子供を誘拐していくんです。
そこに1人の女性が現れて、「あの男は離婚をした直後で、親権を母親側に奪われたから子供を誘拐したんだ。」という説明を受けます。男はそれを真実と信じ、何事も無かったかのように流してしまうんです。
本当にこれだけの物語で、ページ数もわずか6ページです。
ただこの作品はいかに我々が情報というものを重視し、それを元にして世界を構築し、事実から目を背けているのかということを皮肉っています。
我々の世界が情報というものによって裏打ちされたいかに儚く、脆いものかということを突きつけてくる作品なのです。
確かに情報は我々の世界を豊かにしました。しかし、本当に大切なのは情報ではなく、血の通った「事実」なんだということです。
それが『空飛ぶタイヤ』という作品が我々に発しているメッセージでもあるような気がしました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『空飛ぶタイヤ』についてお話してきました。
映画的に傑出したところはなくテレビドラマの延長戦にあるような映画ではありましたが、それでも映画館で見るに値する作品であるとは思います。
改めて映像化されたのも、もう一度この映画を見て、「情報」との付き合い方を考えてみませんか?という意図があるように思いました。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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