みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『聲の形』の地上波放送が決まったということで、それに向けて当ブログの過去記事を大規模リライトしております次第です。
公開当時に書いた内容を残しつつ、そこに新しい内容を書き加えながら、映画『聲の形』に見る山田尚子流フォーカスの長所と短所に迫っていけたらと思います。
作品のネタバレになるような内容を含む記事となっておりますので、その点をご了承いただいた上で読み進めていただけたらと思います。
良かったら最後までお付き合いください。
あらすじ・概要
「週刊少年マガジン」に連載され、「このマンガがすごい!」や「マンガ大賞」などで高い評価を受けた大今良時の漫画「聲の形」を、「けいおん!」「たまこラブストーリー」などで知られる京都アニメーションと山田尚子監督によりアニメーション映画化。
脚本を「たまこラブストーリー」や「ガールズ&パンツァー」を手がけた吉田玲子が担当した。退屈することを何よりも嫌うガキ大将の少年・石田将也は、転校生の少女・西宮硝子へ好奇心を抱き、硝子の存在のおかげで退屈な日々から解放される。
しかし、硝子との間に起こったある出来事をきっかけに、将也は周囲から孤立してしまう。それから5年。心を閉ざして生き、高校生になった将也は、いまは別の学校へ通う硝子のもとを訪れる。
(映画comより引用)
映画「聲の形」感想・考察(ネタバレあり)
原作と比較する映画版『聲の形』の一長一短
この作品は聾者の少女である硝子が小学校に転校するところから始まります。
ただ、主人公の将也と周囲の子供たちは聴覚障害がきっかけで硝子をいじめるようになっていきました。
しかし、その結果としてそのいじめが自分に降りかかるような形で今度は自分がいじめの対象となってしまった将也。
将也の周りの人間関係は崩壊し、暗い影を落とすこととなります。
そして将也、硝子はともに高校生になり、将也の罪悪感がきっかけで再会し、再び関係を強めていきます。止まったままだった彼らの時計の針は再び動き出すのです。
簡単な物語のイントロダクションを説明したところで、この「聲の形」が原作から映画に変換されるにあたって評価したい部分と批判したい点を挙げ、最後にまとめたいと思います。
評価ポイント①
©大今良時・講談社・映画聲の形政策委員会 「聲の形」予告編より引用
まず評価したいのは、その圧倒的な映像の美しさと躍動感でしょう。
ここのところ美しい背景描写で話題となっている新海誠作品。しかし京都アニメーションの背景作画も全く後れを取ってはいません新海作品の背景とはタッチはかなり違いますが、桜や水しぶき、花火、どれをとっても最高品質です。
そしてなんといってもキャラクターの描写が素晴らしいです。
キャラクターデザインではなく、キャラクター描写の書き込みがとんでもないんですよ。
ちょっとした表情の変化、、髪の毛が風になびくさま、筋肉の挙動まで計算されつくしたキャラクターの動き、観客を惹きつける仕草。何気ない一瞬ですら観客を惹きつけて話さないキャラクター描写はもはや圧巻の一言です。
これは京都アニメーションにしかできない芸当です。
評価ポイント②
©大今良時・講談社・映画聲の形政策委員会 「聲の形」予告編より引用
次に評価したい点は原作よりも永束くんを魅力的なキャラクターに仕上げたことでしょう。
この作品は原作を読んでいると特にですが、かなり重く、苦しい展開が続きます。
映画ではそういった描写の大部分がカットされましたが、それでもやはり登場人物たちの悩みや葛藤が続きます…。
そんな中で永束くんは今回の映画において、常に観客の笑い声を誘うキャラクターであり続けたました。
原作にある映画製作というエピソードが丸ごとごっそりカットされたことで、永束くんは見せ場の半分ほどがなくなったにも関わらず、なぜ魅力的だと感じたのでしょうか。
1つは表情が豊かな点でしょう。
京都アニメーションが以前に製作した「日常」というテレビアニメで培ったシュールな表情や何とも言えないシュールな表情を惜しげもなく使い、永束くんというキャラクターを非常にコミカルに仕上げてきました。
もう1つは映画製作展開をカットされたことで彼の葛藤という部分が、友人関係(主に将也)に絞られたことで、より将也の親友としてのポジションを確立されたことです。
これはほかのキャラクターの掘り下げがカットされたことにも起因するでしょう。
苦悩する主人公に笑顔で手を差し伸べ続け、入院から帰ってきた将也の下へいち早く駆け付け涙を流す(映画オリジナル)永束くんは確実に原作よりも友情に熱い男として描かれ、魅力的になっていたと思いました。
評価ポイント③
映画にはどうしても2時間という尺が付きまといますよね。
だからこそ原作を丸ごと映画に落とし込むことはできません。ラストシーンに関してですが、原作では将也と硝子が成人式ののち、小学校の同窓会会場へと入っていくところで幕を閉じます。
一方の映画では、文化祭で将也が、自分をいつも友人が支えてくれていることを認識し、今まで遮って来た世界の「聲」に耳を傾けるところで終わります。『聲の形』は原作と映画でラストシーンは異なるんです。
しかし、映画の締め方としてこのシーンを持ってきたことを純粋に評価したいと私は考えています。というのも原作のテーマ性を失わせないラストに仕上がっていたからです。
「自分の「聲」を他人に伝え、他人の「聲」を聞く。そうやって他人とコミュニケーション取りながら生きていかなければならないんだ。」というメッセージが伝わってくるラストになっていたと思えました。
またこのシーンの演出が素晴らしく鳥肌が立ちました。
友人の表情と盛り上がる劇伴音楽、そして彼が張り続けてきたXのレッテルが剥がれ落ち、突如世界が「聲」に溢れる。
まさに最高のフィナーレであったと言えます。
このラストに関しては山田監督がこれまで描いてきた「青春の終わり」という主題にも通底する部分があると思います。それに関しては別記事で解説しております。
批判ポイント①
まず批判したいのは将也の友人たち、特に佐原と真柴の掘り下げはオールカットされてしまったことです。
いくら尺の都合とはいえキャラクターを登場させた以上、そのキャラクターが物語に必要だったのかを明確にしないといけないはずです。
しかし、今回の映画ではメインキャラクターにも関わらずそれがなされておらず、もはや空気のように印象に残らない人物に仕上がっているキャラクターが多いように見受けられました。
真柴がいじめに人一倍敏感なのはなぜか。佐原を成長させたきっかけは何だったのか。川井さんの人物像も全く掴めません。原作のキャラクターの魅力を悉くかき消してしまった点については感心できません。
キャラクターを登場させた以上は当然掘り下げて欲しいところです。
『聲の形』という作品はあくまでもメインキャラクター全員に問題とその解決、進むべき道が示される作品なのです。映画版では当時キャラクターのほとんどのそういった側面が排除され、綺麗に洗い流されてしまいました。
そのため何だか人間味の無いキャラクターが陳列される結果となり、非常に陳腐で浅い友情ごっこに仕上がっている点が否定できなくなってしまったのです。
批判ポイント②
©大今良時・講談社・映画聲の形政策委員会 「聲の形」予告編より引用
次に批判したいのは、将也と硝子を取り巻く友人関係の薄っぺらさです。
原作では映画製作という展開が非常に効果的でした。
この1つのものを共同で作り上げていくという作業がキャラクター同士の内面を剥き出しにし、ぶつかりながらも成長させ、関係性を深めていくというのは青春映画の定石です。
しかし映画では2人を取り巻く友人グループはたったの1回遊園地に遊びに行っただけなんですよね。
一般的に考えて、知り合いになって1度遊園地に行っただけの友人関係とはどれくらいの深さなんでしょうか。その程度の友人関係で果たしてあんなにお互いに本気でぶつかり合えるのでしょうか。
映画製作を通して、お互いの「聲」をぶつけ合うことで友情を深めていくというバックボーンが原作後半の展開の説得力となっていたにも関わらず、それが無くなってしまったがために、妙に薄っぺらい友情劇になり下がった印象です。
彼らの友情関係に何の説得力もないまま物語が進行するために、キャラクターが「脚本」という大きな力に突き動かされている駒であるという雰囲気が強まってしまい、すごく幻滅してしまいました。
批判ポイント③
私はこの映画が原作からカットしてしまった部分においてどうしても許せないところがあるんです。
それが、硝子の母親が硝子の聴覚障害が原因で離婚を強いられたこと、それが原因で自分にも硝子にも強く生きることを求め続けてきたということ。そしてそれを祖母が支えてきたということ。
この過去の回想シーンを抜かしたのが正直最大のミスだと思っています。
この一連のシーンは私が原作で一番泣いたシーンだと言っても良いですし、この原作の肝だと思うんです。
このバックボーンがあってこそ、母親が厳しく、そして冷酷であろうとする意味や祖母が亡くなった時に母親が人知れず涙を流す意味が分かるのです。
これをカットしてしまうと母親の行動や心情のすべてが何の裏付けもないものになってしまいます。ここをカットした点は本当に手痛いと思います。
まとめ
ここまで評価点と批判点を述べてきました。
原作の毒という毒をきれいに洗い流し、夏にふさわしいさっぱりとした青春映画になっていたように思います。この点は原作を既読か未読かで評価が分かれるところでしょう。
やはり一番思ってしまうのは、なぜテレビアニメでやらなかったのかということです。
2時間の映画で駆け足で終えてしまうには非常に骨太なマンガです。今後テレビアニメ展開なんてことがあれば非常に嬉しいと思いますね。
山田尚子監督のフォーカスの短所が如実に出た作品
山田尚子監督作品の最大の特徴というのが、やはりその物語や登場人物に対する独特なフォーカスの仕方でしょう。
というのも彼女の映画においては特定の人物と、彼らの物語に極限までフォーカスし、それ以外の人物やその物語を背景へと追いやってしまうというシステムが通底しています。
2018年の山田尚子監督最新作『リズと青い鳥』ではそのフォーカスが極めて効果的に機能していました。
希美とみぞれという2人の少女の物語に極限までフォーカスすることで、2人の関係性に内包された閉塞感や緊張感を際立たせていました。
正直に言わせていただきますと、そもそも『聲の形』って登場キャラクターがそれほど多いわけでもないですし、最初からかなりミニマルな世界の中でのお話なんです。だからこそ無駄な部分というのがほとんどないわけです。
そこからさらに山田尚子監督は将也と硝子の物語だけにフォーカスしていくんですが、そうするとその周囲の人物がただの背景と化していくんですよね。ピントが合っている場所にフォーカスすると、どんどんその周りにあるものってぼんやりしていき、最終的には消えてしまいます。この現象が映画『聲の形』では生じてしまっています。
そのため、重要なキャラクターたちの掘り下げが全くなされず、それにもかかわらず原作の展開をある程度踏襲しようとしたがために、ただただ薄っぺらなドラマに仕上がってしまいました。
これに関していろいろと考えてはみましたが、やっぱりこの作品は映画ではなく、テレビシリーズで見たかったという一言に集約されてしまいます。
『たまこラブストーリー』がたまこともち蔵以外の描写をあれほどまでに切り捨てながらも名作なのは、あくまでも不評だった『たまこまーけっと』が予めテレビシリーズとして放映され、キャラクターや世界観の掘り下げがある程度下地として存在した上でのフォーカスだったからだと思っています。
それが無い状態で十八番のアプローチでそのまま勝負した山田尚子監督の賭けが少し裏目に出てしまったような気がしてなりません。
山田尚子監督で、そしてテレビシリーズで見ることが出来たなら、もっと納得のいくものになっていたのかなぁと思いますね。
京都アニメーションと山田尚子監督の演出力が光る!
ここまでは少し作品に関してネガティブなことも書いては来ましたが、ここからは本作の演出面での素晴らしさについても触れていこうと思います。
①他人の「聲」を自ら作り出してしまう
本作のテーマは言うまでもなく「聲」であるわけですが、それは「音」として存在するものと言うよりは、相手に自分の思いを伝えるための形のないものと考えるべきでしょう。
さて、そんな中で1つ興味深い演出だったのが、高校生になった将也がすっかり「いじめられっ子」の立場に慣れてしまった学校でのシーンです。
彼は、自分以外の人間との関わりを断つために、他人の「聲」を聴くことを諦めていました。
その一方で、重要なのは、彼がそんな他人が自分に向ける表情や視線から「聲」を勝手に作り出していた描写です。
彼は他人とコミュニケーションを取ることを諦め、他人は自分に何も期待していない、どうせいじめてくるだけだと決めつけて、心を閉ざしてしまっています。
しかし、永束くんが同級生に自転車をパクられそうになっている時に助けを求める「聲」に耳を傾け、行動を起こしたことで彼の人生が大きく変わっていくこととなるのです。
この一連の演出が、本作が他人の「聲」に耳を傾けることによる「変化」を描く作品であることを明確にしています。
②空間を生かした構図
©大今良時・講談社・映画聲の形政策委員会 「聲の形」予告編より引用
山田尚子監督の作品と言うよりは、京都アニメーションの作品で多いのが、登場人物を画角の端に配置し、わざと空白を作る画作りです。
これは『たまこラブストーリー』や『けいおん』『響け!ユーフォニアム』シリーズなどでもしばしば用いられています。
2人が出会った小学生の頃の描写や、高校生になった2人が再会した直後のシーンでは、将也と硝子が同じ場所、同じ空間にいるのに、あえて2人を同じ画角に収めない演出を多用していました。
とりわけ水門橋の上から鯉にパンを挙げているシーンでは、画面の右端に硝子を、画面の左端に将也を配置し、隣同士に立っているのに、2人が断絶された空間にいるかのように演出していましたよね。
©大今良時・講談社・映画聲の形政策委員会 「聲の形」予告編より引用
川というものは、時間を超越して、悠久の時を刻むモチーフでもありますが、こうして長い時間を経て、すれ違っていた2人の人生が交わることとなるのです。
川から上がった2人は、川辺の道で同じ画角の中で向かい合います。
構図の作りによって意図的に生み出される「空白」は孤独感や喪失感、満たされなさのメタファーです。
だからこそ、それを視覚的に「埋めて」いくことによって、登場人物たちがそれぞれに「満たされて」いく様を描いていく演出が効いていたのではないでしょうか。
③電車のシーンの光の使い方の素晴らしさ
©大今良時・講談社・映画聲の形政策委員会 「聲の形」予告編より引用
さて、個人的にも大好きだったのが、本作の中盤にインサートされる佐原さんの在学する学校に向かう時の電車のシーンですね。
まさしく2人の関係が大きく変化し始めたシーンであるわけですが、車窓から差し込む自然光の淡い色づかいは、さながら実写映像でした。
この淡い光は、明確に彼らが希望を見たわけではないけれども、確かに希望に向かって歩き始めたのだということが明確になるシーンでもあります。
まず、2人が光が差し込んできている扉を挟んで立っているというのが、非常に重要なポイントです。
この立ち位置は、2人が1人だけではその光には辿り着けないけれども、2人一緒ならば扉の向こうの光に辿り着けるかもしれないという展望を示唆しているといえます。
そして、淡い光が優しく映像全体を照らしているわけですが、2人は少し陰になっている場所に立っているんですよね。
ここに、2人が抱えている思い、伝えきれない胸の内があるのだということが仄めかされていたのも見事でした。
④「月…きれいだね。」
©大今良時・講談社・映画聲の形政策委員会 「聲の形」予告編より引用
さて、本作の中盤過ぎの場面で硝子が将也に告白する場面がありました。
やはりこの場面って「月が綺麗ですね。」という言葉のコンテクストを知っていると、実に巧くできた描写だということに気がつかされます。
まず、硝子はストレートに告白するわけですが、「ちゅき」と音が崩れてしまい、将也はそれが「好き」であると認識することができません。
そんな彼が代わりに認識したのが「月」だったわけですが、その時に将也は「月…きれいだね。」という発言をするんです。
小説家・夏目漱石が英語教師をしていたときに、生徒に「I love you.」は「月が綺麗ですね」と訳しておきなさいと告げたという逸話があったりするわけですが、そのコンテクストがこのシーンには反映されています。
「月が綺麗ですね」という言葉は、このバックグラウンドを知らなければ、意味を理解することはできません。
知っている人からすれば愛の告白になり、知らない人からすればただの風景批評にしかならないという二面性を帯びた言葉なのです。
硝子は愛の告白のつもりで発した言葉なのですが、将也には全く別の言葉として届いてしまっています。
また、2人の思いはお互いの主観で捉えると噛み合っていないのですが、私たち観客が客観的な視点で見ると、実はもう2人の思いは通じ合っているのだと気がつかせるシグナルにもなっているんですよね。
「ちゅき」に対して「月…きれいだね」と返事をしている。
この言葉をその通りに受け取ると、愛の告白からは程遠いわけですが、文脈を踏まえて第3者視点からとらえると、この言葉が2つとも「愛の告白」になっています。
こういう洒落た演出を施してくると、やはり心をグッと掴まれますね。
⑤生と死、水と蝶
©大今良時・講談社・映画聲の形政策委員会 「聲の形」予告編より引用
本作において、しきりに登場するのが「水」のモチーフでもあります。
まずは、小学生の頃の将也が補聴器を水に投げ込んで壊してしまったシーンから、彼が「いじめられっ子」になり、水でずぶ濡れになるシーンへのシームレスなつなぎがありました。
これは、まさしく将也の心が砕けて「死」してしまったことを端的に表現したシーンと言えるでしょうか。
そして、本作の冒頭のシーンでは将也が水の中に飛び込むことで、まさしく命を断とうとしています。
このように本作の序盤パートでは「水」というモチーフが「死」や「崩壊」と強く結びつけられて描かれているのです。
さて、そうして高校生になった2人が再会を果たすわけですが、2人は橋の上から川に飛び込みました。
まさしく「水」の中に飛び込む行為だったわけですが、この時2人はかつて「水」の中に置き去りにしてきた「命」や「希望」を取り戻したとも言えるでしょう。
「水」は命が生まれる場所でもあり、その一方で命が還っていく場所でもありますからね。
その一方で、同じく「死」を強く感じさせたのが「蝶」です。
亡くなった方が、蝶の姿で訪問する、現れるなんてことも言われますが、しばしばスピリチュアルな存在として扱われるのが蝶なのです。
また蝶は、幼虫から蛹、そして成虫へと姿を変える様から、輪廻転生や復活、変化の象徴とも言われます。
硝子の祖母が亡くなったシーンでは、まさしくそんな蝶が祖母の化身を思わせるかのような様子で天へと昇っていく様子が映し出されていました。
さて、終盤の花火のシーンへ至ると、硝子が思い悩み、ベランダから飛び降りようと試みます。
彼女は空を舞おうとするわけで、しかし、当然飛ぶことはできませんから、真っ逆さまに下に落ちていくことしかできません。
蛹から蝶になっていれば飛ぶことができますが、「変化」を選べなかった彼女は跳ぶことができないのです。
その下には川つまり「水」があるわけで、彼女はまさしく「死」へと向かって行きます。
しかし、彼女の代わりに宙を舞ったのは将也でした。
冒頭のシーンで「変化」をすることを諦め、絶望し、「水」に飛び込むことで命を断とうとしていた青年が、命を賭して誰かを救おうとして、「水」の中へと飛び込んでいくという構図の変化によって、彼の成長と変化ができ的に表現されているんですね。
しかし、彼もまたこの時点では「変化」することができずにいた蛹であり、そして羽ばたけずに水の中へと落下し、意識を失います。
ただ、こうして1度「死」んだ2人は、復活し、「変化」を選ぶことができるのです。
また、幼虫から蛹へ、そして蝶へ。これは次第に自分の視線が上へ上へと上がっていくことをも表しています。
下ばかりを見つめ、誰の顔も見ようとしなかった将也。
しかし、彼はクライマックスの文化祭のシーンで、ようやく顔を上げ、そして世界を見つめることができるようになります。
「蝶」は何気ないモチーフではありますが、作品の中で非常に重要な役割を果たしていることが分かりますね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
皆さんは映画版『聲の形』に関してどのような感想を持ちましたでしょうか?
やはり公開当時から高評価の方が多いイメージはあります。
ただ私はどうしてもこのアニメ映画版に関しては山田尚子監督らしさが裏目に出ているような気がしてなりません。
ただここでの失敗があったからこそ『リズと青い鳥』という作品で、自身の持ち味を研ぎ澄ませた究極の人物フォーカスを実現できたんだと思いました。
その一方で、演出的な部分では京都アニメーションらしさと山田尚子監督らしさが冴えわたっており、語りたくなるシーンが山ほどあります。
ぜひ1つ1つのシーン、表情、構図、モチーフにまで目を向けて、ディテールを楽しんで欲しい作品ですね。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
聲の形を見た感想としてどうしても本質的な違和感が拭えず、他の方がどういう感覚で捉えているのかを知りたくてここに辿り着いた次第です。
山田監督、私も繊細な感性を持った方だと思います
恐らく昨今のテレビアニメの制作環境を考慮しての劇場版という選択だったのでしょうが、それで本質を損ねては意味がありません
原作があり、緻密に構成された世界があれば、それを映像にするにはなにが使えるか、という順序で個性を生かすべきです
でなければ監督の主観で撮った映像にしかなりえなく、それはエゴ、とも捉えられます
そしてそれは感動を確実に阻害するものです
客観性をもった作家が増えることを願って止みません
テレビアニメで見たかったですね
長くなりましたがナガさんのよく考えられた、そしてやさしい批評に感心しています
不必要に攻撃的な文章を目にすることが多いので
今後もたまに覗かせて頂きま~す
missionさんコメントありがとうございます!!
ちょっと山田監督らしさが裏目に出てしまった映画ではありましたよね…。
仰る通りでやはりテレビシリーズで見たかったアニメでした。