イントロ
ボーイミーツガールを扱う映画作品、文学作品というのはもはや定番ともいえる題材で毎年多くの作品が公開、出版されている。
そんな中で今年は、2つの傑出したボーイミーツガール映画作品が公開された。
1つ目の作品はジョンカーニー監督の新作「シングストリート」である。
©2015 Cosmo Films Limited 「シングストリート」ポスターより引用
この作品は「ONCE」や「はじまりのうた」を手がけたジョンカーニー監督の新作で、彼の半自伝的映画ともいわれている。
1985年の大不況下にあるダブリンでが舞台となる。父親の失業、母親の不倫、主人公のコナー自身もそんな両親の都合で荒れた公立高校に編入。まさにコナーは人生のどん底にあった。そんな彼を唯一支えてくれたのはロンドンを彩る音楽とそのMVたち。そしてある日町で出会った美少女ラフィーナに一目惚れしたコナーは無謀にもバンド活動を始めることになる。
2つ目の作品はジョジョモイーズという女流作家の大ヒットラブストーリーを著者自身が脚本を執筆し。映画化された「ME BEFORE YOU(世界一キライなあなたに)」である。
©2016 WARNER BROS. 「世界一キライなあなたに」ポスターを引用
この作品の舞台はとあるイギリスの田舎町。働き手のいない家計を、カフェでウエイトレスをして支えていたルーはカフェの閉店に伴い新しい職を探すことを余儀なくされる。そして6ヶ月と契約期間が定められた不思議な介護の仕事に巡り会う。
ルーが介護することになったのは名家の一人息子で元実業家のウィルという青年であった。彼は2年前の交通事故で脊髄を損傷し、四肢が麻痺していた。そんなルーとウィルは徐々に心を通わせていく。
2つの作品はある意味ボーイミーツガールものの定番といえるだろう。しかしなぜこの2作品はありふれた内容でありながら、これ程多くの人の目にとまったのか?今回の記事ではその点に関して考察していきたい。
2つの作品の異なる点
この二つの作品にはボーイミーツガールものとして決定的に違うところがある。
「シングストリート」においてコナーとラフィーナは比較的近い境遇にある。コナーは両親の影響で家庭が崩壊、掃きだめのような公立高校で窮屈な人生を送る高校生。ロンドンの音楽にあこがれている。
ラフィーナは早くに両親がいなくなり孤児院で育った。モデルという夢がありながら、そんなチャンスなど微塵も感じないダブリンの町に失望しており、ロンドンでのモデル活動を夢見ている。
©2015 Cosmo Films Limited 「シングストリート」より引用
このように非常に似た境遇にある男女を出会わせるというのはある種のボーイミーツガールものの醍醐味である。似た境遇にあるからこそ、互いにわかり合えるし、共感し合える。
そしてその境遇から飛び出す、問題を解決する、壁を乗り越えることがお互いの共通認識としての目標になり、その過程にドラマが生まれる。「シングストリート」はまさにこのタイプの物語である。
一方で、「世界一キライなあなたに」におけるウィルとルーは全く違う境遇に置かれている。ウィルは資産家の子息で、自身もかつては実業家として名をはせた。夢や目標を絶えず追いかけ続けていたし、人生を謳歌していた。
しかし突然の事故で肢体不自由になり、人生に絶望した。ルーは田舎町の貧乏な家の育ちで、自分の目標を持つこともなく、ただ家計を支えるためにウエイトレスとして働いてきた。趣味もなく人生の目的も見い出せないが、今の生活に半ばあきらめ混じりの幸福感を感じていた。
©2016 WARNER BROS. 「世界一キライなあなたに」より引用
このように全く境遇の違う男女を出会わせることもまたボーイミーツガールものの定番である。全く生き方や考え方も違う2人を出会わせることで、衝突しながらも、お互いがお互いに影響を受けていく。
恋愛関係になるとともに、それぞれの生き方や考え方、将来のビジョンなども変化していく。そんな過程にドラマが生まれる。「世界一キライなあなたに」はまさしくこのタイプだ。
このように正反対ともいえるタイプの2作品だが、どちらもボーイミーツガールものの定番中の定番のシチュエーションを扱っている。
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異質なものの存在感
この項目からは2作品の共通点を扱うこととする。
ボーイミーツガールものの必要要素として、なぜ目を奪われたのか、なぜ魅力を感じたのかということを明確にすることが求められる。というのも鑑賞する側はそれが明確でないと、2人のドラマに合理性と説得力を感じられないのである。
この2つの映画作品に共通するのは、鑑賞する側に視覚的にその魅力とりわけ女性側の魅力を訴えた点にあると感じている。
「シングストリート」のラフィーナは1985年大不況下にある閉塞感に包まれて寂れたダブリンの町には何とも似合わない出で立ちで登場する。まさに異質な存在感を放っている。主人公のコナーでなくとも、誰にでも目にとまるほどの存在感である。この視覚的説得力はこの作品において非常に重要な役割を果たしていた。
©2015 Cosmo Films Limited 「シングストリート」より引用
一方の「世界一キライなあなたに」におけるルーも同様である。
©2016 WARNER BROS. 「世界一キライなあなたに」より引用
彼女の奇抜なファッションはどう考えてもウィルが「夢を諦めたものたちが住む町」と評するイギリスの田舎町には似合わない出で立ちであるし、ウィルの自宅である古城にも全くマッチしないまさに異質な存在感を放っている。しかし、そんな異質感があるからこそ、ウィルがルーに魅力を感じ、心惹かれていく過程に説得力が生まれる。
映画作品においては文学作品のように詳細に心情説明をすることはない。だからこそ文学にはない武器である視覚的な情報で物語に説得力と合理性を付与していくことが不可欠なのである。
この2作品は環境に異質な存在感を放つ女性を配置するという手法で、ボーイミーツガールものにおいて最重要ともいえる「ミート」の部分を印象的に仕上げたのである。
視覚的な存在感というのは非常に鑑賞する側に印象を与えやすいのだ。今年の映画で例を挙げるならば、深田監督の「淵に立つ」という映画がまさしくそうである。
序盤から終始白い服を着ていた浅野忠信が中盤のとあるシーンで突然赤い服になる。その一瞬の視覚的演出の印象が強すぎるあまり、物語の後半に浅野忠信がほとんど登場しないにも関わらず、赤色のモチーフが登場するたびに彼の存在感を画面のどこかに感じてしまう。
このように視覚的情報を上手く操ることで映画というものはより次元の高い映像作品に昇華されるのだ。
ぜひこちらの作品の感想・解説記事も読みに来ていただけると嬉しいです。
参考:【ネタバレあり】『ボヘミアンラプソディ』感想・解説:ラスト21分の衝撃と感動!
Happy Sad
Happy Sadというのは「シングストリート」の劇中でラフィーナのセリフに出てくる言葉である。
しかし、この言葉は今回取り上げた2作品両方に共通するテーマだと考えている。
今回取り上げた2作品は終盤の展開が感動的とかではなく、全編にわたって、物語展開や演出、劇伴音楽によって非常に切ない空気感に包まれた作品になっている。
おそらくこの正体こそがHappy Sadだと思う。
「シングストリート」では、閉塞感に包まれたダブリンで、複雑な家庭状況を抱え、人生のどん底にある2人の男女が、わずかな希望を手繰り寄せていく。
またどんな悲しみのどん底にいても、コナーは自分が音楽を製作したり演奏したりしている時は幸せを感じているし、ラフィーナも、コナーたちのバンド活動に参加したり、彼の音楽を聞いている時だけは幸せを感じているのだ。
©2015 Cosmo Films Limited 「シングストリート」より引用
そして「世界一キライなあなたに」においても、このHappy Sadが全編にわたって作品の空気感を演出している。
ウィルとルーが何気なく映画を見るシーン、モーツァルトのコンサートに行くシーン、競馬場に行くシーン。彼らが登場する何気ないシーンにも鑑賞する側はあまりの切なさに涙を抑えきれない。
それは彼らの幸せの裏側に深い悲しみがあるからだ。ウィルは夜中に叫んだり、ルーのいないところでは発狂してしまったりしていると言われていたが、それはルーに自分の悲しみを見せないためだ。
そしてルー自身もウィルに生きる希望を与えるために、ウィルの前では決して涙を見せない。2人の幸せはそんな深い悲しみの中にほのかに輝く淡い光なのだ。
だからこそそんな儚い幸せに我々は涙してしまうのだ。
©2016 WARNER BROS. 「世界一キライなあなたに」より引用
この2作品に共通するのは幸せと悲しみのコントラストではなく、幸せと悲しみの同居である。
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音楽や愛で世界は変えられない
この項目が今回語りたいことの主題となる。たまに映画や文学、日本のアニメやマンガの中で目にするのだが、「音楽で世界を変えてやる!」とか「愛で世界を変えてやる!」みたいなスタンスというか視座みたいなものがある。24時間テレビのキャッチコピーも「愛は地球を救う」である。
しかし、現実的な話をすると、こんなことはまずありえない。確かに理想や空想の世界ならそんな超現実も存在するのかもしれないが、我々の生きる現実において音楽や愛だけで世界を変えるなんてことは夢想家の言うことだ。つまり音楽や愛という概念の力を過信している。
だが、この2作品に共通する視座はズバリ音楽や愛で世界を変えるなんてことはできないという現実的な視座なのである。ジョンカーニーは自身の監督作品で必ず音楽を扱うが、絶対に音楽の力を過信しない。そういう、良い意味で冷めた視座がとても素晴らしいのだ。
しかし、この2作品において音楽、愛がそれぞれ題材にされている以上、監督や著者がそこに何か信ずるものがあるのは明白だ。
では、何を信じているのか?
それは音楽や愛は誰かの人生に影響を与えることくらいはできるという視座である。コナーのラフィーナへの思いを込めた楽曲はラフィーナの生き方に、そして回り回って自分の未来に影響を与えた。まさに音楽が自分の人生を、他人の人生を変えたのだ。
またルーのウィルに対する愛は、ウィルの最期の6カ月を彩り、死にゆく彼に人生の意味と喜びを与えた。そしてウィルのルーに対する愛は彼女に生きる目標を与えた。愛もまた誰かの人生を変えるのだ。
ジョンカーニー監督もジョジョモイーズも音楽、愛を信じている一方でどこか信じていない部分がある。その絶妙な不信感がこの2作品の説得力に繋がっているのだ。
ここまでこの2作品に関しての魅力を4つのポイントから語ってきた。
まだまだ語りたいところだが、かなり長文になってきたので、この辺りで終わりにしたいと思う。
今年を代表するボーイミーツガール映画作品だ!!
夢を追う彼らの行く先に希望があらんことを…
追記
ラストのルーのバンブービータイツの演出がすごく憎いですよね…。
「シングストリート」のラストではコナーとラフィーナが夢を追いかけて、ロンドンへ小船で向かいますが、「世界一キライなあなたに」のラストもこのタイツの演出のおかげで、ルーはウィルと共に夢を追いかけていくんだってことが伝わってくる。